できごと

北越戦争

Hokuetsu War
AD1868年(慶応4年)5月
重要度 3
北越戦争に関わる図版:Echigo no kuni Uesugi Kagekatsu katoku arasoi kassen
Echigo no kuni Uesugi Kagekatsu katoku arasoi kassen Wikimedia Commons Ichiyosai Kuniteru (Utagawa Kuniteru II) (1830-1874) · Public domain

概要

長岡藩の河井継之助は中立を求め、新政府軍の使者に拒まれて戦った。ガトリング砲2門。城を取られ、取り返し、また取られた。継之助は傷で会津へ向かう途中で死んだ。「米百俵」は戦後の話。

場所

長岡
37.45°N 138.85°E · 新潟県

関わった人(1)

河井継之助AD1827年1月27日–AD1868年10月1日 · 家老

本文

越後の長岡藩は、譜代大名の牧野家が治める7万4千石の藩だった。幕末にこの藩の舵を取ったのが、河井継之助である。河井は若い頃に江戸で学び、備中松山藩の山田方谷のもとで藩の財政立て直しの実際を見た。1860年代の後半に藩の要職に就くと、借金の整理、役人の綱紀の引き締め、賭博や遊郭の取り締まりを進め、藩の財政を立て直した。

河井は、浮いた財と藩の宝物を売った金で、兵制を洋式に改めた。横浜でスネル兄弟らの外国商人から、新式の小銃と、手回しで弾を連射するガトリング砲2門を買い入れた。ガトリング砲は当時の日本に3門しか無かったと言われる。強い軍備を持ったうえで、どちらにもつかずに争いを収める「武装中立」が、河井の目指したものだった。

1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、新政府軍は東へ兵を進めた。江戸は無血で明け渡されたが(江戸無血開城)、新政府は会津藩を朝敵として討つ方針を変えず、東北と越後の諸藩は会津への同情と新政府への反発から揺れていた。閏4月、新政府軍は越後に入り、長岡藩に恭順の証として兵と軍資金を出すよう求めた。

江戸無血開城に関わる図版:Surrender of Edo Castle (Meiji Memorial Picture Gallery)
江戸無血開城Wikimedia Commons Yūki Somei 結城素明 (1875–1957) · Public domain

5月2日、河井は小千谷の慈眼寺で、新政府軍の軍監・岩村精一郎と会った。岩村は土佐藩の出身で20代の前半、河井は40代の初めだった。河井は、長岡は会津と新政府の間に立って和平を取り持ちたいので、しばらく猶予がほしいと嘆願書を差し出した。岩村は嘆願書を受け取らず、短い時間で会談を打ち切った。恭順するなら兵を出せ、さもなくば敵とみなす、という態度だった。河井は翌日も面会を求めたが、かなわなかった。この「小千谷談判」の決裂で、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦うことになった。

戦いは激しかった。新政府軍には、長州の山県有朋、薩摩の黒田清隆らが参謀として加わっていた。長岡藩兵は会津や米沢、桑名などの兵とともに、信濃川沿いの榎峠や朝日山で新政府軍を食い止め、朝日山では長州の奇兵隊を率いた時山直八が戦死した。しかし5月19日、新政府軍は朝霧に紛れて信濃川を渡り、手薄になっていた長岡城を急襲して落とした。河井はガトリング砲を自ら撃って防いだと伝えられる。

北越戦争を描いた浮世絵。画題は『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』であるが、時の政府に配慮して北越戦争を武田と上杉の戦いに見立てて描いたもの。歌川芳盛作。
北越戦争を描いた浮世絵。画題は『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』であるが、時の政府に配慮して北越戦争を武田と上杉の戦いに見立てて描いたもの。歌川芳盛作。Wikimedia Commons Utagawa Yoshimori (1830-1885) · Public domain

河井は城を捨てて退き、近くの村々を拠点に反撃を続けた。7月24日の夜、長岡藩兵は城の北東に広がる八丁沖と呼ばれる沼地を、ひそかに渡った。新政府軍が通れないと考えていた湿地を越えての奇襲で、翌25日、長岡城を取り戻した。だがこの戦いで、河井は左の膝に銃弾を受けて重傷を負った。指揮をとる者を欠き、新政府軍の増援を受けて、7月29日、城は再び落ちた。

河井は担架に乗せられて、会津へ向かった。越後と会津の境の険しい八十里越の峠を越えるとき、「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」と自嘲の句を詠んだと伝えられる。傷は悪化し、8月16日、会津領の塩沢村(いまの福島県只見町)で亡くなった。数えで42歳。死を前に、従者に自分の棺を作らせ、その様子を見守ったという話が残る。戦いはその後、会津へ移っていった(会津戦争)。

会津戦争に関わる図版:Battle of Aizu at Wakamatsu castle by Tsukioka Yoshitoshi
会津戦争Wikimedia Commons Yoshitoshi · Public domain

戦いのあと、長岡の町は焼け、藩は7万4千石から2万4千石に減らされて、藩士の家族は食べる物にも困った。1870年、親類の三根山藩から見舞いの米百俵が届くと、藩の大参事となっていた小林虎三郎は、これを藩士に分けず、売った金で学校を建てた。百俵の米も食えばたちまち無くなるが、教育に充てれば明日の一万俵、百万俵になる、という考えだった。この「米百俵」の話は、2001年、小泉純一郎首相が最初の所信表明演説で引いて広く知られた。河井と同じ藩の話だが、河井の死後のことである。

河井継之助の評価は分かれる。長岡を戦火に巻き込み、多くの犠牲を出したとして、戦後しばらく地元でも恨む声があった。一方、時代に先んじた改革者として見直す声もあり、司馬遼太郎が小説『峠』で描いてから、広く知られるようになった。長岡市には河井継之助記念館が、只見町には彼が亡くなった家の跡に記念館がある。

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