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Event / できごと

北越戦争

Hokuetsu War
AD1868年(慶応4年)5月
重要度 3

概要

長岡藩の河井継之助は中立を求め、新政府軍の使者に拒まれて戦った。ガトリング砲2門。城を取られ、取り返し、また取られた。継之助は傷で会津へ向かう途中で死んだ。「米百俵」は戦後の話。

場所

長岡
37.45°N 138.85°E · 新潟県

関わった人(1)

河井継之助AD1827年1月27日–AD1868年10月1日 · 家老

本文

長岡藩。 牧野家。 7万4千石。 河井継之助。 家老。 1867年から藩政を握り、 藩の借金を返し、 年貢を軽くし、 兵制を洋式に。 横浜で、 スネル兄弟から、 ガトリング砲2門と、 最新のミニエー銃を買った。 ガトリングは、 日本に3門しか、 なかった。 「武装中立」。 「長岡は、 会津にも、 新政府にも、 つかない」。 「両者の間に立って、 和を」。

慶応4年閏4月。 新政府軍が、 越後へ。 5月2日、 小千谷。 慈眼寺。 河井は、 新政府軍の軍監、 岩村精一郎に、 会った。 岩村は、 24歳。 土佐。 河井、 41歳。 「長岡は、 中立。 会津と新政府の、 間を、 取り持ちたい。 猶予を」。 岩村は、 30分で、 断った。 「恭順するなら、 兵を出せ。 さもなくば、 敵」。 河井は、 翌日、 もう一度、 頼んだ。 岩村は、 会わなかった。 「小千谷談判」。 河井は、 帰って、 戦うことにした。 「この藩を、 薩長の、 草履取りにはしない」。 5月19日、 長岡城が落ちた。 新政府軍が、 信濃川を、 渡った。 河井は、 今町、 栃尾で、 反撃。 7月24日、 八丁沖。 夜。 沼を、 渡った。 城を、 取り返した。 25日。 河井は、 膝に、 銃弾。 29日、 城は、 また、 落ちた。 会津へ。 八十里越。 「八十里、 腰抜け武士の、 越す峠」。 自分で、 詠んだ。 8月16日、 塩沢。 只見。 破傷風。 死んだ。 42歳。 「私は、 戦を、 したくなかった。 だが、 戦った」。

長岡藩は、 2万4000石に。 飢えた。 三根山藩から、 米百俵。 小林虎三郎。 「食えば、 一日で、 なくなる。 学校を、 建てる」。 国漢学校。 1870年。 「米百俵」は、 戦後の話。 河井の、 話ではない。 2001年、 小泉首相が、 所信表明で、 引いた。 「痛みに、 耐えて」。 司馬遼太郎『峠』。 1968年。 河井は、 そこで、 「最後の、 武士」に。 長岡には、 河井の墓と、 「河井継之助記念館」。 会津には、 彼が死んだ、 医者の家。

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