悪党の登場
概要
荘園の年貢を奪い、幕府の命令に従わない者たちが各地に現れた。悪人ではなく、商いと運送と山野の民が、既存の支配の枠に収まらなくなった姿になる。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
鎌倉時代の後半、荘園を持つ寺社や貴族から、幕府や朝廷へ訴えが相次ぐようになった。年貢を奪い取る者がいる。荘園に押し入り、城郭を構えて立てこもる者がいる。召し出しに応じず、命令を聞かない者がいる。訴状は彼らを「悪党」と呼んだ。13世紀の半ばから文書に目立ちはじめ、14世紀の初めにかけて、とくに畿内とその周りで急に増えていく。
「悪」という字は、いまの悪人とは少し意味が違う。中世の「悪」には、手に負えない、並外れて強い、という響きがあり、「悪源太」のように武勇をたたえる呼び名にも使われた。訴える側にとって、悪党とは自分たちの支配の枠に従わない者すべてだった。実際に名前が分かる悪党を見ると、その多くは在地の武士や荘園の役人で、なかには荘官の地位にある者、寺の下級の僧も含まれていた。
東大寺の荘園だった伊賀国の黒田荘では、荘園の役人だった一族が何十年にもわたって寺に背き、年貢を押さえ、寺から差し向けられた使いを追い返した。寺は何度も幕府に訴え、幕府も討伐の使者を送ったが、根を絶つことはできなかった。
14世紀に播磨で書かれた『峰相記』は、悪党の姿を書き留めている。正安年間(1299〜1302年)のころの彼らは、柿色の帷子に六方笠をかぶり、烏帽子も袴も着けず、柄や鞘の剥げた太刀を差し、竹の長柄の武器を持つ程度の、ばらばらの身なりの者たちだった。それが20年あまりのちの正中・嘉暦のころ(1324〜1329年)には、立派な馬に乗り、50騎、100騎と連なって、金銀をちりばめた武具をそろえるようになった、と書く。悪党は短い間に、富と兵を持つ勢力に育っていった。
背景にあったのは、銭の流れだった。中国から大量の宋銭が流れ込み、年貢を銭で納めることが広がり、物を運び、売り買いし、金を貸す人々が力をつけた。港や川の渡し、市場や街道を押さえる者は、田畑を持たなくても富を得られる。ところが鎌倉幕府の仕組みは、土地を与えて御家人を従えることで成り立っていた。新しい富の流れは、その網の目からこぼれ落ちた。
御家人たちの暮らしも苦しくなっていた。分割相続で領地は細かくなり、元寇の戦いと警備の負担は重くのしかかったのに、恩賞の土地は乏しかった。土地を手放す御家人が増え、幕府は1297年に永仁の徳政令を出して売った土地を取り戻させようとしたが、かえって金の貸し手が手を引き、混乱が広がった。没落した御家人の中からも、悪党と呼ばれる道を選ぶ者が出た。
幕府はたびたび悪党の取り締まりを命じ、守護や使者を送って鎮めさせた。だが悪党はしばしば地元の武士や守護の家来とも結びついていて、取り締まる側と取り締まられる側の境はあいまいだった。ある荘園で悪党として訴えられた者が、別の荘園では役人として雇われていることもあった。
やがて悪党の力は、幕府そのものを倒す流れに合流する。後醍醐天皇(後醍醐天皇)が倒幕を企てると、河内の楠木正成が赤坂城と千早城にこもり、幕府の大軍を引きつけた。正成は1332年の文書で、和泉国の荘園を押さえる「悪党楠木兵衛尉」として名指しされている。水銀や物資の運送、商いにかかわる一族だったとみる説がある。伯耆の名和長年も、海の運送で富を蓄えた家の出だった。幕府が倒れ、建武の新政が始まると、彼らは新しい政権の中で恩賞を受けた。
悪党という存在に新しい光を当てたのは、歴史家の網野善彦だった。網野は、中世の日本を米を作る農民だけの社会としてではなく、海の民、山の民、商人、職人、芸能の民が行き交う社会として描き直した。悪党は、そうした農業だけでは説明できない人々の力が、古い荘園と御家人の秩序の外にあふれ出た姿だという。後醍醐天皇がこうした人々を味方につけたことを、網野は異形の王権と呼んだ。この見方には、悪党の多くはやはり土地に根ざした武士だったとする批判もあり、議論は続いている。
いずれにせよ、悪党の登場は、土地と身分で人をつなぎとめる鎌倉の秩序が限界に来たことを示していた。そのあとに続く南北朝の動乱と室町の世は、銭と流通をつかんだ者が力を持つ時代になっていく(物語「『日本の歴史をよみなおす』で読む日本」)。