人物

藤原純友

Fujiwara no Sumitomo
? – AD941年
日本重要度 3

概要

伊予の役人が海賊の頭になり、将門と同じ年に瀬戸内で蜂起した。大宰府を焼いた。追討され、伊予で捕えられて獄死した。将門と京で会って東西から攻める約束をした、という話は後の作り。

所属

日本

関わったできごと(1)

藤原純友の乱AD939年 · 首領

本文

生年は分からない。系図集『尊卑分脈』によれば、藤原北家の長良の曾孫にあたり、父の良範は大宰少弐を務めた。長良の子の基経が摂政・関白として権勢を振るったのに対し、同じ北家でも純友の家は傍流で、地方官を務めて暮らす中級の貴族だった。父は早くに死んだとされる。一方で、伊予の豪族の出で藤原氏の養子になったとする伝えもあり、出自にははっきりしない点が残る。

歌川国芳画
歌川国芳画Wikimedia Commons Utagawa Kuniyoshi · Public domain

930年代の初め、純友は伊予国の掾(国司の三等官)として瀬戸内海に面した伊予に下った。当時の瀬戸内には海賊が横行し、都へ運ばれる税や物資がたびたび襲われていた。海賊の多くは、国司の苛酷な取り立てに追われた地元の有力者や、任期が終わっても都に帰らず土着した役人たち、海の民だった。936年、朝廷は伊予守紀淑人に海賊の鎮圧を命じ、淑人は降った海賊に田畑を与えて農に帰らせた。純友はこのとき、鎮圧にあたる側にいたとする記録がある。

ところが、任期を終えたあとも純友は都に帰らず伊予にとどまり、やがて海賊の首領として名が現れる。『日本紀略』は、南海の賊徒の首領藤原純友が仲間を集めて伊予の日振島に拠り、千余艘の船を備えている、と記す。鎮める側の者が、なぜ海賊を率いる側に回ったのか。国司として地元の有力者や海の民と深く結びつくうちに、都の貴族社会では得られない力の基盤をそこに見いだしたのだろうと考えられているが、本当のところは分からない。

藤原純友駒立岩(愛媛県松山市の久枝神社内)
藤原純友駒立岩(愛媛県松山市の久枝神社内)Wikimedia Commons CT-May · CC0

939年12月、純友の配下の藤原文元らが、摂津国の須岐駅で備前介藤原子高の一行を襲い、子高の耳を切り鼻を削いで、妻を奪い、子を殺したと記録は伝える。子高は、純友が兵を率いて海に出たことを都に知らせようと急いでいたところだった。文元は備前の地で子高と対立していた者で、国司と地元の者の争いが、海賊の蜂起に火をつけた形だった。

同じころ、東国では平将門が国府を次々に落とし、新皇を名乗っていた(平将門の乱)。東西で同時に反乱が起きたことに、都は震え上がった。朝廷はまず将門の討伐を優先し、940年1月、純友には従五位下の位を与えてなだめようとした。一方で小野好古を追捕使に任じ、西の海への備えも進めた。

平将門の乱に関わる図版:Takedono no Rakugan 高殿落雁 (BM 2008,3037.19902 1)
平将門の乱Wikimedia Commons Print artist: Utagawa Kuniyoshi (歌川国芳) Published by: Enshuya Matabei (遠州屋又兵衛) · Public domain

2月、将門が討たれると、朝廷は西に力を向けた。純友の勢力は、その後も8月に讃岐の国府を焼き、さらに安芸・周防の沿岸を荒らし、周防の銭を鋳る役所を焼き、四国の西南の土佐にまで手を伸ばした。941年2月、純友の部下の藤原恒利が朝廷の側に寝返り、追討軍を日振島の本拠へ導いた。拠点を失った純友は船団を率いて九州へ渡り、5月、大宰府を攻め落として政庁を焼き、財物を奪った。九州を治める朝廷の出先が、海賊に焼かれたのである(藤原純友の乱)。

だが、勝ちはそこまでだった。博多湾で小野好古の軍と大蔵春実らの水軍が純友の船団を迎え撃ち、激しい戦いの末に打ち破った。800艘ほどの船が奪われたという。純友は小舟に乗ってひそかに伊予へ逃げ帰ったが、6月、警固使の橘遠保に、息子の重太丸とともに捕らえられた。純友は獄中で死んだとも、討たれたともいわれる。首は都に送られた。残った部下の藤原文元らも、その年のうちに追い詰められて討たれた。

中野神社跡の石碑
中野神社跡の石碑Wikimedia Commons Araiyasushige · CC0

将門の乱と純友の乱は、合わせて承平・天慶の乱と呼ばれる。のちには、若いころの将門と純友が比叡山に登って京の町を見下ろし、将門は天皇に、純友は関白になろう、と約束し合ったという話まで語られるようになった。二人が会った証拠はなく、後世の説話である。それでも、東西の反乱が同じ時期に起きたことは、都の人々に偶然とは思えないほど強い印象を残した。

二つの乱は、地方の武力に頼らなければ朝廷が国を守れなくなったことを示した。将門を討ったのも、純友を討ったのも、地方で力を蓄えた武士たちだった。この戦いで手柄を立てた者たちの子孫から、やがて武士の家が育ち、のちの平氏政権や鎌倉の幕府へとつながっていく。伊予の宇和島の沖に浮かぶ日振島には、いまも純友の城跡と伝わる場所がある。

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