概要
義時の子。承久の乱で京へ攻め上り、六波羅に残った。三代執権。評定衆を置き、合議にした。御成敗式目。「道理」の人。飢饉に米を貸し、借金の帳簿を焼いた。禅僧に「あなたは聖人だ」と言われて「私は罪人だ」と答えた、と『沙石集』。
関わったできごと(2)
承久の乱AD1221年 · 京へ攻め上った御成敗式目AD1232年(貞永元年) · 執権本文
泰時。金剛。 1183年。義時の長子。母は分からない。 1194年、元服。頼朝が烏帽子親。「頼時」。 1221年、承久。 「京へ」。父義時。「上皇が自ら出てきたら」。「弓を捨てて降れ。そうでなければ戦え」。 19万。 六波羅。 新補地頭。 1224年、義時が死んだ。伊賀氏の変。政子が。 執権。 1225年、政子。大江広元。 評定衆。連署。叔父時房。 1232年、式目。 「道理」。 1231年、寛喜の飢饉。 「米を出せ。利子は取らない」。 「借金の証文を焼いた」。 「馬の値を下げた」。 「奢侈を禁じた」。自分から。 1242年、四条天皇が12歳で死んだ。後継者。「順徳の子」を公家が。泰時は「承久の張本人の子は」。土御門の子。後嵯峨。 6月15日。60歳。 「明恵に会った」。「あなたは聖人」。「私は罪人。父を助けて上皇を」。 『沙石集』。 『吾妻鏡』。「彼が死んで、鎌倉の人は父母を失ったように泣いた」。 「北条の中で、彼だけが」。 「時頼、時宗」。 北条は得宗に。 「泰時は合議で治めた。孫たちは一人で」。 「式目」。 「道理」。 「頼朝以来」。 「彼は、承久で天皇の軍と戦った男」。 「その男が、武士の法を書いた」。 「京の人は笑うだろう」。 「笑わなかった」。 常楽寺。大船。墓。