人物

北条泰時

Hōjō Yasutoki
AD1183年 – AD1242年7月14日(享年59・推定)
鎌倉幕府重要度 4

概要

義時の子。承久の乱で京へ攻め上り、六波羅に残った。三代執権。評定衆を置き、合議にした。御成敗式目。「道理」の人。飢饉に米を貸し、借金の帳簿を焼いた。禅僧に「あなたは聖人だ」と言われて「私は罪人だ」と答えた、と『沙石集』。

関わったできごと(2)

承久の乱AD1221年 · 京へ攻め上った御成敗式目AD1232年(貞永元年) · 執権

本文

1183年、北条義時の長男として生まれた。幼名は金剛。母については、御所に仕えた女房の阿波局とする記録があるが、はっきりしない。源平の争乱のさなかで、祖父の北条時政と父義時は、源頼朝を支えて鎌倉に新しい武家の政権を作りつつあった。

北条泰時の肖像
北条泰時の肖像Wikimedia Commons 栗原信充 (Kurihara Nobumitsu) · Public domain

1194年、12歳で元服した。烏帽子親を務めたのは頼朝自身で、その名から一字を与えられて頼時と名乗った。のちに泰時と改める。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、少年時代の逸話が残る。頼朝の御家人が、鎌倉の道で泰時に出会っても馬を下りずに通り過ぎたことがあった。頼朝は怒ってその者を罰しようとしたが、泰時は自分のために人が罰せられることを望まなかった、という。頼朝の死後、二代将軍頼家、三代実朝の時代、北条氏は有力な御家人たちを次々に滅ぼして、幕府の実権を握っていった。泰時もその戦いに加わっている。

1219年、三代将軍実朝が暗殺され、源氏の将軍は絶えた。京都の後鳥羽上皇は、これを機に幕府を倒そうと考えた。1221年5月、上皇は義時を討てという命令を全国に発した。承久の乱である。天皇の命令に逆らうことは、当時の武士にとって恐ろしいことだった。動揺する御家人たちを前に、頼朝の妻だった北条政子が、頼朝の恩は山よりも高く海よりも深い、と訴えて心を一つにさせた話はよく知られている。

『英雄百首』の泰時。画:歌川貞秀
『英雄百首』の泰時。画:歌川貞秀Wikimedia Commons 歌川貞秀 · Public domain

幕府は、守りを固めるより、こちらから京へ攻め上る道を選んだ。総大将に立てられたのが、39歳の泰時だった。14世紀の歴史物語『増鏡』は、出陣の場面をこう伝えている。泰時はいったん鎌倉を出たあと、ひとり引き返して父に尋ねた。もし上皇が自ら御輿に乗って戦場に出てこられたら、どうすればよいか。義時は答えた。そのときは弓の弦を切り、兜を脱いで降れ。上皇が都におられて兵だけを差し向けてこられたなら、命を捨てて戦え。

幕府軍は東海道・東山道・北陸道の三方から京へ向かった。『吾妻鏡』はその数を19万騎と記すが、誇張を含むとみられる。泰時の軍は宇治川で激しい抵抗に遭い、多くの兵が増水した川に流されたが、渡り切って京に入った。乱はわずか1か月で終わった。後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ流され、乱に関わらなかった土御門上皇も自ら土佐へ移った。

和田合戰義秀惣門押破(歌川国芳作)
和田合戰義秀惣門押破(歌川国芳作)Wikimedia Commons 歌川国芳 · Public domain

乱の後、泰時は叔父の時房とともに京の六波羅にとどまり、朝廷の監視と西国の御家人の統率にあたった。のちの六波羅探題の始まりである。上皇方についた貴族や武士の領地3000か所あまりが没収され、幕府の御家人たちがその地頭に任じられた。幕府の力は、ここで初めて西国にまで及んだ。

1224年、父義時が急死した。義時の後妻の一族である伊賀氏が、自分たちの子を後継に立てようと動いたが、政子がこれを抑え、泰時を執権とした。翌1225年には、幕府創設以来の重臣大江広元と、政子も相次いで世を去った。頼朝の時代を知る支えを失った泰時は、一人に権力が集まる形ではなく、話し合いで決める仕組みを作った。叔父の時房を連署として執権と並ぶ地位に置き、有力な御家人や実務に通じた役人11人を評定衆に任じた。幕府の重要な決定や裁判は、執権・連署と評定衆の会議、評定で決めることにした。

1232年、泰時は御成敗式目51か条を定めた(御成敗式目)。武士のための、初めての体系的な法である。土地の争い、地頭と荘園の領主の関係、相続、犯罪の罰などについて、頼朝以来の先例と、武士の社会の慣習をもとに定めた。泰時は京にいる弟の重時に手紙を書き、この式目の考えを説明している。これは格別な典拠によったものではなく、ただ道理の示すところを記したものだ。京の律令は漢字の読めない武士には分かりにくい。仮名しか知らない者でも分かるように、と。式目は朝廷の法を否定するものではないとも、彼は断っている。式目はその後も武家の法の基本として長く尊重され、江戸時代には寺子屋の手習いの教科書にもなった。

1230年から翌年にかけて、天候の異常から寛喜の飢饉が起き、餓死者が国中にあふれた。泰時は、領地の富裕な者に命じて米を貸し出させ、返せない者の分は自分が肩代わりすると約束した。自らも食事を減らし、酒宴を控えたという。飢饉の際の人の売り買いについても、生きるための非常の手段として特別な扱いを定めた。

1242年、京都で四条天皇が12歳で急死し、後継が問題になった。京の公家たちの多くは、順徳上皇の皇子を推した。だが泰時は、承久の乱を首謀した上皇の子を天皇にすることを認めず、乱に加わらなかった土御門上皇の皇子を立てさせた。後嵯峨天皇である。幕府が皇位の継承にまで口を出した出来事だった。

その年の6月、泰時は病のため死んだ。数え60歳だった。京都の高山寺の僧明恵に深く帰依し、政治の心得を問うたという話が、明恵の伝記に残っている。人柄は質素で、慎み深く、私欲が少なかったと伝えられる。のちの歴史書や説話集は、彼を理想の為政者として描いた。

泰時の後、執権の地位は孫の時頼へ、さらにその子の北条時宗へと受け継がれた。その間に、権力は北条氏の嫡流である得宗の家に集まり、泰時が作った合議の仕組みは次第に形だけのものになっていった。承久の乱で朝廷の軍を破った武将が、武士のための法を書いた。武家が自らの法で自らを治めるという考えは、この人から始まった。墓は、鎌倉の大船にある常楽寺に残る。

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