マリンディの水先案内
概要
喜望峰を回ったポルトガル船は、東アフリカで案内人を得て季節風に乗りインドへ渡った。その人をイブン・マージドとする話が広まっているが、確かな証拠はない。
場所
-3.22°N 40.12°E · ケニア
本文
1497年7月、ヴァスコ・ダ・ガマの4隻の船隊がリスボンを出た。10年前、バルトロメウ・ディアスがアフリカの南端を回って引き返している(喜望峰の回航)。ガマの船隊はその先へ進み、11月に喜望峰を回った。
だが、喜望峰を回った船は、そこから先の海を知らない。東アフリカの沿岸がどこまで続くのか、どこから海を渡ればインドに着くのか、ポルトガル人は確かな知識を持っていなかった。しかもインド洋の風は、季節によって向きが逆になる。夏は南西から、冬は北東から吹く。時期を外して海に出れば、何か月も進めず、戻ることもできない。

船隊はアフリカ東岸を北へ上がった。モザンビークでは、ムスリムの商人たちと衝突した。モンバサでは迎え入れるふりをして船を奪おうとしているのではと疑い、逃げるように港を離れた。こうした港はスワヒリ海岸の交易都市の交易都市で、アラビア、ペルシア、インドの商人が行き交い、インド洋の航海の知識が集まる場所だった。
1498年4月、船隊はマリンディに着いた。マリンディの王はモンバサと争っていて、モンバサの敵であるポルトガル人を歓迎した。ガマは王と贈り物を交わし、インドまでの案内人を得た。

マリンディは、インド洋の向こう側とも早くから結ばれていた。1415年ごろには、マリンディの使節が明の宮廷にキリンを贈り、中国では伝説の瑞獣「麒麟」だと騒がれている。鄭和の南海遠征の艦隊もこの沿岸まで来ていた。ガマがマリンディに着く80年ほど前のことになる。ガマは、マリンディの浜に、ポルトガル王の紋を刻んだ石の柱を立てさせた。その柱は、いまも町の岬に残っている。
4月24日ごろ、船隊はマリンディを出た。案内人は南西の季節風に乗って、アラビア海を一気に横切らせた。5月20日、船隊はインド西岸のカリカットの近くに着いた(カリカット到着)。4週間足らずの渡海だった。

この案内人を、アラブの名高い航海者イブン・マージドとする話が広く語られている。航海術の書を何冊も残した人物で、インド洋で最も知られた水先案内人だった。だが、この話は16世紀の後半にメッカで書かれたアラビア語の年代記が元になっている。その書き手は、ポルトガル人に海の道を教えた者として、彼を非難するように書いた。同時代に近いポルトガル側の記録は、案内人をグジャラート(インド西部)から来た者と書いており、名前もイブン・マージドとは一致しない。イブン・マージド自身の著作にも、そのような記述は無い。20世紀の初めにフランスの東洋学者がこの説を広め、通説のようになったが、いまは疑問視する研究者が多い。
案内人が誰だったにせよ、確かなのは、ポルトガルが自力でインドへ渡ったのではないことになる。
インド洋には、千年以上動いてきた航海の仕組みがあった。星の高さで緯度を測る道具があり、季節風の周期に合わせて、いつどの港を出ればどこに着けるかが暦のように決まっていた。港ごとに商人の居留地があり、言葉の通じる仲介者がいた。外から来た船は、それを使わせてもらって渡った。
帰りの航海が、そのことをはっきり示す。カリカットでの交渉がうまくいかず、ガマは8月の末に港を出た。季節風が北東に変わる前だった。アラビア海を渡るのに4か月近くかかり、その間に壊血病で多くの船乗りが死んだ。マリンディに戻り着いたのは翌年の1月だった。往きに4週間足らずで渡った海が、時期を誤れば命を奪う海になった。
最初の航海で持ち帰った香辛料は、それでも大きな利益を生んだ。その数年後、同じ海で砲撃が始まる。1500年には、途中でブラジルに着いたことで知られるペドロ・アルヴァレス・カブラルの艦隊がカリカットを砲撃し、1502年にはガマ自身が再び艦隊を率いて来航し、巡礼船を焼き払った。案内を受けて渡った海を、ポルトガルは力で押さえようとした。