できごと

トラテロルコの併合

Conquest of Tlatelolco
AD1473年
重要度 3
北米東部の狩猟採集民平原のバイソン狩猟民アマゾンの狩猟採集民インカ帝国高原の漁労・狩猟採集民神聖ローマ帝国ミシシッピ文化北米太平洋岸の採集・狩猟・漁労民砂漠の狩猟採集民アステカアンデスの諸国と首長制社会カリブの狩猟採集民タイノイロコイ連邦マヤの諸都市国家サポテカミシュテカCaloosahatchee cultureureAD1473年トラテロルコ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1473年の版図を描いています(18勢力)。

概要

テノチティトランの隣の島の双子の街。アステカ最大の市場。王アシャヤカトルが攻め、トラテロルコの王は神殿から落ちて死んだ。市場は残り、1521年に最後の戦いの場所になり、1968年に学生が撃たれた広場になった。三つの文化の広場。

場所

トラテロルコ
19.45°N -99.14°E · メキシコ

本文

メキシコ盆地のテスココ湖に浮かぶ島には、二つの都があった。南のテノチティトランと、北のトラテロルコである。伝承では、テノチティトランの建設から十数年後の1337年ごろ、メシカの人々の一部が分かれて島の北の端に移り住み、自分たちの町を作った。トラテロルコとは「土の丘」を意味するとされる。二つの町は運河一本を隔てて隣り合い、言葉も神々も同じくする、双子のような都だった。

二つの町は、性格が違った。テノチティトランは戦士と神官の町で、周りの町々を征服して貢ぎ物を取り立てた。トラテロルコは商人の町だった。ポチテカと呼ばれる遠隔地の商人たちは、ここを拠点に遠く南の熱帯まで旅をして、羽根や翡翠やカカオを持ち帰った。彼らは商売のついでに各地の様子を探る役目も負い、征服の先触れにもなった。トラテロルコの市場は、盆地じゅうから人と品物が集まる、アステカの世界で最大の市場になった。

1473年のテノチティトランによるトラテロルコ征服(メンドーサ絵文書)。倒れている人物はモキウィシュ
1473年のテノチティトランによるトラテロルコ征服(メンドーサ絵文書)。倒れている人物はモキウィシュWikimedia Commons Public domain

1428年、テノチティトランはテスココ、トラコパンと三都の同盟を結び、急速に勢力を広げた(アステカ)。北の隣町は、豊かではあっても、しだいに格下の同盟者になっていった。トラテロルコの最後の王モキウィシュは、テノチティトランの王アシャヤカトルの姉妹を妻にしていた。後世の年代記によれば、モキウィシュは妻を冷たく扱い、辱めた。妻は兄のもとへ逃げ、夫が兵を集めて戦の支度をしていると告げたという。話がどこまで本当かは分からないが、二つの町の争いが、王家の婚姻を通して表に噴き出したことは確かである。

1473年、アシャヤカトルの軍がトラテロルコに攻め込んだ。戦いは市場と大神殿のまわりで行われ、追い詰められたモキウィシュは神殿の高い階段から転げ落ちて死んだ。突き落とされたとも、自ら身を投げたとも伝えられる。トラテロルコは独立を失い、テノチティトランの一部になった。王は置かれなくなり、テノチティトランが任じる軍人の総督が治めた。重い貢ぎ物も課された。

アステカ三国同盟の構成国を示す絵文字。テスココ(左)、テノチティトラン(中央)、トラコパン(右)
アステカ三国同盟の構成国を示す絵文字。テスココ(左)、テノチティトラン(中央)、トラコパン(右)Wikimedia Commons XcepticZP (author of Tenochtitlan glyph source file) Goldenbrook · Public domain

だが市場は残った。1519年、エルナン・コルテスに率いられたスペイン人がこの島に入ったとき、彼らが何より驚いたのが、このトラテロルコの市場だった。コルテスは国王への報告に、毎日6万人を超える人が売り買いしていると書いた。従軍したベルナル・ディアスは、金銀や宝石、羽根、布、奴隷、塩、カカオ、薬草、紙、焼き物までが区画ごとに整然と並び、市場の役人が量りをごまかす者を取り締まっていたと記している。ローマやコンスタンティノープルを見たことのある兵が、これほど大きく秩序だった市場は見たことがないと言った、とも書いた。

1521年、スペイン人と、アステカに反感を抱く先住民の大軍がテノチティトランを囲んだ。南の町が落ちると、最後の王クアウテモクと人々はトラテロルコに立てこもり、ここが最後の戦場になった。飢えと疫病のなかで抵抗は続いたが、8月13日、湖へ逃れようとしたクアウテモクが捕らえられ、戦いは終わった(テノチティトランの陥落)。トラテロルコの人々は、のちにナワトル語で、壊れた矢と、髪を振り乱した人々と、虫の湧く水を歌った哀歌を残している。

テノチティトランの陥落に関わる図版:Conquista-de-México-por-Cortés-Tenochtitlan-Painting
テノチティトランの陥落Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

征服のあと、神殿の跡にはフランシスコ会のサンティアゴ教会が、神殿の石を使って建てられた。1536年、その隣にサンタ・クルス学院が開かれ、先住民の貴族の子弟にラテン語や哲学が教えられた。修道士サアグンは、この学院で学んだ先住民の協力者たちとともに、アステカの暮らしと信仰と征服の記憶をナワトル語で書き取った。のちに『フィレンツェ絵文書』と呼ばれるこの記録は、征服された側が自分たちの言葉で残した歴史として、いまも最も重要な史料の一つである。

20世紀の半ば、この一帯には巨大な団地が建てられ、アステカの神殿の遺構、植民地時代の教会、近代の集合住宅が一か所に並ぶ広場が整えられた。「三つの文化の広場」である。広場の碑には、1521年8月13日のトラテロルコの陥落は、勝利でも敗北でもなく、今日のメキシコである混血の民の苦しい誕生であった、と刻まれている。

この広場は、もう一つの記憶も背負うことになった。1968年10月2日、メキシコ・オリンピックの開幕の10日前、のちに表彰台で拳を突き上げた選手たち(表彰台の拳)で知られることになる大会を前にして、政府に抗議して広場に集まった学生や市民に、軍と治安部隊が銃を向けた。政府は死者を数十人と発表したが、実際は数百人に上るとも言われ、正確な数はいまも分かっていない。この虐殺の記憶は長く封じられ、1993年になってようやく、犠牲者の名を刻んだ碑が広場に建てられた。1985年の大地震では、広場の団地の一棟が崩れ、多くの住民が亡くなっている。商人の町として始まったトラテロルコは、メキシコの歴史の痛みが幾重にも積み重なった場所になった。

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