カルタゴの建設
概要
ティルスから来たフェニキア人が北アフリカに築いた。母市が衰えたあとも西地中海の交易を握り、600年後にローマと三度戦うことになる。
場所
36.85°N 10.32°E · チュニジア・チュニス県
本文
建国の伝承は、ローマ時代の歴史家たちが書き残した形で伝わっている。地中海の東の端、いまのレバノンの海岸にあったフェニキア人の都市ティルスに、エリッサという王女がいた。兄のピュグマリオンが王位に就くと、その財産を狙って、エリッサの夫で神官の長だったアケルバスを殺した。エリッサは夫の財宝と、王に不満を持つ貴族たちを船に乗せてひそかに町を逃れ、キプロスを経て、北アフリカの海岸にたどり着いた。
土地の人々に住む場所を求めると、牛一頭の皮で覆えるだけの土地なら、という答えが返ってきた。エリッサは皮を細い紐に裂いてつなぎ、丘を一つぐるりと囲んでしまった。この丘が、後のカルタゴの城塞ビュルサである。ビュルサはギリシア語で「皮」を意味し、この話は地名から後で作られた説明だろうと考えられている。エリッサは後に、土地の王から結婚を迫られ、亡き夫への誓いを守って火の中に身を投げたと伝えられる。ローマの詩人ウェルギリウスはウェルギリウス『アエネイス』で彼女をディドの名で描き、トロイアから逃れてきたアエネアスとの悲恋の物語にした。アエネアスはトロイア戦争の直後の人物なので、年代は数百年合わない。

建国の年をBC814年ごろとするのは、ギリシアの歴史家ティマイオスの記録に基づく。都市の名はフェニキア語でカルト・ハダシュト、「新しい町」を意味した。考古学の調査では、町の最も古い層はBC9世紀の終わりから8世紀の初めごろのものとされ、伝承の年代と大きくは離れていない。
フェニキア人は、すでに数百年にわたって地中海を往き来していた。ヒラムのティルスの時代からティルスの船は西へ向かい、紫の染料ティルスの紫や杉材、工芸品を運び、スペインの銀や錫を持ち帰った。航路の途中には、水と食料を補い、風を待つための港が点々と作られた。北アフリカのウティカ、スペインのガデス(いまのカディス)など、カルタゴより古いとされる植民市もある。
カルタゴが抜きん出たのは、場所のためである。いまのチュニジアの首都チュニスに近い岬にあり、シチリア島とのあいだの海峡はおよそ140キロしかない。東地中海と西地中海を行き来する船は、その前を通らざるをえない。背後には麦やオリーブのよく育つ平野が広がり、良い港もあった。カルタゴは長く、母市ティルスのメルカルト神殿に毎年供え物を送り続け、母市との結びつきを保っていた。
その母市は、東の大国に呑まれていく。ティルスは新アッシリア帝国に貢ぎ物を納めるようになり、BC6世紀には新バビロニアのネブカドネザル2世に13年にわたって囲まれた。東のフェニキア人の都市が力を失うにつれ、西地中海のフェニキア人の植民市はカルタゴのもとに集まった。BC6世紀にはサルデーニャやシチリア西部に手を伸ばし、エトルリア人と組んでギリシア人の植民の進出を押し返している。BC332年、ティルスがティルス攻囲でアレクサンドロスに落とされた後も、カルタゴは西地中海の交易を握り続けた。
カルタゴは王ではなく、選ばれた二人の最高の役人(スフェス)と長老の評議会が治める国になった。アリストテレスは『政治学』で、カルタゴの国制をスパルタやクレタと並ぶよく治まった国の例として取り上げている。艦隊と、各地から雇った傭兵の軍を持ち、交易の利益でそれを養った。BC6世紀の末にはローマと条約を結び、互いの勢力圏を取り決めてもいる。
伝承の建国からおよそ550年後、シチリアをめぐって第一次ポエニ戦争が始まった。相手は、イタリア半島をまとめつつあった都市ローマである。三度の戦争の末、BC146年にカルタゴ滅亡を迎え、町は焼き払われた。のちにローマはこの地に植民市を築き直し、カルタゴはローマのアフリカ属州の中心として再び栄えることになる。