オイルショック
概要
産油国が石油を武器にした。高度成長が終わり、資源の有限さが意識される。
場所
21.42°N 39.83°E · サウジアラビア
本文
1960年代、世界の経済は安い石油の上で回っていた。中東では次々に大きな油田が見つかり、原油の値段は1バレル2ドル前後で長く据え置かれていた。値段を決めていたのは、産油国ではなく、欧米の大手石油会社だった。1960年に産油国がOPECの結成で手を結んだのは、この力関係を変えるためである。日本は高度成長の燃料を石油に切り替え、エネルギーの4分の3を輸入した石油に頼るようになっていた。そのほとんどが中東から来ていた。
1973年10月6日、エジプトとシリアがイスラエルを奇襲し、第四次中東戦争が始まった。6年前の第三次中東戦争で奪われた土地を取り戻すための戦争である。アメリカがイスラエルへの大規模な武器の空輸を始めると、アラブの産油国は石油を武器として使うことを決めた。

10月16日、ペルシア湾岸の産油国は、原油の公示価格を一方的に7割引き上げた。翌17日、アラブ石油輸出国機構は、イスラエルが占領地から撤退するまで、毎月5パーセントずつ生産を減らしていくと発表した。続いて、イスラエルを支持するアメリカとオランダへの石油の輸出を止めた。国々は、アラブに友好的な国、中立の国、敵対する国に分けられ、友好国でなければ供給を減らされた。12月には公示価格がさらに引き上げられ、1974年1月には1バレル11ドル余りと、戦争の前のおよそ4倍になった。
日本の衝撃は大きかった。日本はアメリカの同盟国で、友好国とはみなされなかった。11月、政府はそれまでの姿勢を改め、イスラエルの占領地からの撤退を求める官房長官の談話を出し、12月には副総理の三木武夫を特使として中東諸国に送った。年末になって、日本はようやく友好国として扱われるようになった。資源を持たない国が、自分の外交の立場を変えさせられた瞬間だった。

暮らしの場でも騒ぎが起きた。11月はじめ、大阪の千里ニュータウンのスーパーで、トイレットペーパーを求める客が殺到した。紙が無くなるといううわさは、たちまち全国に広がり、各地の店先から洗剤や砂糖まで消えた。紙の生産が実際に止まっていたわけではない。無くなるかもしれないという不安が、人々を買いだめに走らせ、本当に店から物を消したのである。
政府は石油の消費を減らすための法律を作り、ガソリンスタンドは日曜日に休み、ネオンサインは消され、テレビの深夜放送は取りやめになった。物の値段は跳ね上がり、1974年の消費者物価は前の年より2割以上上がった。「狂乱物価」と呼ばれた。この年の日本の実質経済成長率は、戦後初めてマイナスになる。年に1割近く伸び続けた高度成長は、ここで終わった。

アラブの禁輸は、1974年3月にアメリカに対して解除された。だが値段は元に戻らなかった。産油国は値段を決める力を握り、石油会社の油田を次々に国のものにしていった。産油国には巨額の「オイルマネー」が流れ込み、それが欧米の銀行を通じて世界を巡るようになった。
各国は石油への依存を減らすことに力を注いだ。アメリカは自動車の速度に上限を設け、石油の備蓄を始めた。1974年には、消費国が協力して非常時に備える国際エネルギー機関が作られた。高値になったことで、それまで採算の合わなかった北海の油田なども開発が進んだ(ノルウェーの北海油田の発見)。日本では省エネルギーの技術が磨かれ、燃費のよい日本の小型車は、やがてアメリカの市場で大きく売り上げを伸ばすことになる。

原子力への傾斜が強まったのも、この時期である。日本は1974年に原子力発電所を受け入れる地域に交付金を出す仕組みを整え、太陽光などの新しいエネルギーの研究計画も始めた。フランスは電力の大半を原子力でまかなう道へ大きく舵を切った。
1979年、イランの革命で石油の輸出が乱れ、値段は再び急騰した。第二次石油危機である。二度の危機は、エネルギーが、ただの商品ではなく、国の安全を左右するものであることを世界に示した。安い資源が無限に続くという前提は崩れ、資源の有限さと、それを持つ国と持たない国の力関係が、国際政治の中心に置かれるようになった。2年前の金とドルの交換停止でドルと金の結びつきが絶たれていたこともあって、1970年代は戦後の経済の仕組みが大きく揺らいだ10年として記憶されている。