マニラ・ガレオン貿易
概要
メキシコの銀とアジアの絹が太平洋を往復した。ポトシの銀が中国へ流れる経路がここで完成する。
場所
14.60°N 120.98°E · フィリピン
本文
16世紀の初め、スペインは大西洋を越えてアメリカ大陸に広大な植民地を築いた。1521年、マゼランの艦隊は太平洋を西へ渡ってフィリピンに着いた(世界一周の達成)。だが、アジアから東へ、太平洋を渡ってアメリカへ戻る道は、長いあいだ見つからなかった。東へ向かう船は、向かい風に阻まれて引き返すしかなかったのである。
1565年、レガスピの率いるスペインの遠征隊がフィリピンに拠点を築いた。同じ年、遠征に加わっていた修道士で航海者のウルダネタが、帰りの道を見つけた。フィリピンから北東へ大きく上り、北緯40度近くまで北上すれば、西から東へ吹く風と海流に乗って、太平洋を横切り、北アメリカの西岸に着ける。この道が見つかったことで、太平洋を往復する航路が初めて成り立った。1571年、レガスピはマニラを都に定めた。

こうして始まったのが、マニラとメキシコの太平洋岸の港アカプルコを結ぶガレオン船の貿易である。ガレオン船は大きな帆船で、スペイン王室は船の数を年に一隻か二隻に限り、積み荷の量にも上限を定めた。アメリカの銀がアジアに流れすぎることを恐れたためだったが、決まりを越える密輸は絶えなかった。
マニラからアカプルコへ向かう船は、中国の絹織物、陶磁器、漆器、東南アジアの香辛料などを積んだ。アカプルコからマニラへ戻る船は、ほとんどが銀を積んでいた。メキシコの銀山や、南アメリカのポトシ銀山(ポトシ銀山の開発)で掘り出された銀である。

その銀が向かった先は、中国だった。明の中国では、16世紀の後半、税を銀で納める制度が広まり(一条鞭法)、国の経済は大量の銀を必要としていた。中国では銀が金に比べて高く評価されていたので、アメリカの銀を中国の品と替えれば大きな儲けになった。福建などから中国の商人がジャンク船で毎年マニラへやって来て、絹や陶磁器を銀と交換した。同じころ、日本の石見銀山などの銀も中国へ流れ込んでいた(石見銀山)。アメリカ大陸とアジアが、銀を通じて一つの市場につながった。
マニラには中国の商人や職人が住み着き、町の外に彼らのための居住区が作られた。その数は数万に達し、スペイン人の数をはるかに上回った。スペイン人は彼らの商いに頼りながらも恐れ、1603年には衝突から大規模な殺害が起きている。

太平洋を東へ渡る航海は過酷だった。アカプルコまで半年近くかかることもあり、壊血病や飢え、嵐で多くの乗員が死んだ。難破する船もあった。1596年には、マニラからアカプルコへ向かっていたサン・フェリペ号が嵐に遭って土佐に漂着し、その積み荷の扱いをめぐるいきさつは、豊臣秀吉がキリスト教徒を処刑するきっかけの一つになった。
この航路は、物だけでなく作物も運んだ。トウモロコシ、サツマイモ、ラッカセイ、唐辛子など、アメリカ大陸の作物がアジアへ入る道の一つになった。1590年代には、福建の商人がルソン島からサツマイモを持ち帰ったと伝えられ、サツマイモはやせた土地でも育つ作物として中国南部に広まった。唐辛子がアジアに入った経路は、ポルトガル人の航路も含めていくつもあったと考えられている(唐辛子の伝播)。

メキシコにも、アジアの品があふれた。中国の陶磁器や絹は、メキシコ市の上流の人々の暮らしを飾り、さらに大西洋を越えてスペインへ運ばれるものもあった。メキシコの人々はガレオン船を「中国の船」と呼んだ。
1815年、メキシコの独立戦争のさなかに、最後のガレオン船がアカプルコを出た。250年にわたって続いた航路は、そこで終わった。ヨーロッパからアメリカへ、アメリカからアジアへ、そしてアジアから再びアメリカとヨーロッパへ。マニラ・ガレオンは、地球を一周する交換の輪をつなぐ、最後の一本だった(コロンブス交換)。