大陸横断鉄道の開通

概要
東から西へユニオン・パシフィック、西から東へセントラル・パシフィック。中国人労働者1万2000人がシエラネバダにトンネルを掘った。ユタのプロモントリーで、金の犬釘を打った。電信で「DONE」。ニューヨークからサンフランシスコまで、6か月が1週間に。バッファローが撃たれ、平原の先住民の暮らしが終わり、西部が開かれた。
場所
41.62°N -112.55°E · アメリカ・ユタ州
本文
19世紀の半ば、アメリカは太平洋岸まで国土を広げていた。1848年にはメキシコとの戦争でカリフォルニアを得て、同じ年に金が見つかり、翌年から何万もの人が西へ押し寄せた。だが東部とカリフォルニアのあいだには、大平原とロッキー山脈と砂漠とシエラネバダ山脈が横たわっていた。幌馬車で大陸を横切れば数か月かかり、途中で病や事故で命を落とす者も多かった。船で南米の南端を回るか、パナマの地峡を越えて乗り継ぐ道もあったが、これも数週間から数か月を要した。東と西を鉄道で結ぶ計画は1840年代から語られていたが、どの道筋を通すかをめぐって北部と南部が譲らず、進まなかった。
南北戦争(南北戦争)が、その行き詰まりを解いた。南部の州が議会から去ったため、北寄りの道筋で決めることができたのである。1862年7月、エイブラハム・リンカーン大統領は太平洋鉄道法に署名した。東からはネブラスカのオマハ付近を起点にユニオン・パシフィック鉄道が、西からはカリフォルニアのサクラメントを起点にセントラル・パシフィック鉄道が線路を延ばす。政府は、敷いた線路1マイルごとに、平地なら1万6000ドル、山地なら最大4万8000ドルの国債を貸し付け、線路の両側の広い土地を与える。線路を多く敷いた会社ほど多くの金と土地を得る仕組みで、二つの会社は互いに競い合うことになった。

西のセントラル・パシフィックを動かしたのは、サクラメントの商人だった4人、のちに「ビッグ・フォー」と呼ばれるリーランド・スタンフォード、コリス・ハンティントン、マーク・ホプキンズ、チャールズ・クロッカーである。山越えの道筋を測量して計画を立てた技師セオドア・ジューダは、開通を見ずに病死した。会社の前に立ちはだかったのは、花崗岩の固いシエラネバダ山脈だった。そして働き手が足りなかった。カリフォルニアの男たちは、つるはしを握るなら鉄道より金鉱を選んだ。
1865年、クロッカーの現場監督は、中国から来た労働者を50人試しに雇った。体が小さく鉄道の仕事には向かないと言われていた彼らは、よく働き、規律があり、酒に溺れなかった。会社は次々に中国人を雇い、さらに広東から直接呼び寄せた。最も多いときには1万人を超え、セントラル・パシフィックの労働者の8割から9割を占めたとされる。

彼らは山の斜面に足場を刻み、断崖からかごで吊り下げられて岩に穴をあけ、火薬を詰めた。全部で15本のトンネルを掘り、峠の下を抜ける最も長いトンネルでは、一日に進めるのはわずか30センチほどだった。ニトログリセリンも使われたが、扱いを誤れば爆発で人が死んだ。1866年から67年の冬は大雪で、労働者たちは雪の下にトンネルを掘ってその中で暮らし、働いた。雪崩で宿舎ごと流された者もいた。何人が死んだのかは、記録がほとんど残っておらず分からない。賃金は白人の労働者より低く、白人には会社が出した食事と宿を、中国人は自分たちで賄った。1867年の6月、数千人の中国人が賃上げと労働時間の短縮を求めてストライキを起こしたが、会社は食糧の供給を止め、1週間ほどで仕事に戻らせた。
東のユニオン・パシフィックは、南北戦争の退役兵やアイルランドからの移民を大量に雇い、平原を西へ進んだ。工事の指揮をとったのは、北軍の将軍だったグレンヴィル・ドッジである。線路の先端には、酒場や賭博場が並ぶテントの町がついて回り、「車輪の上の地獄」と呼ばれた。平原はスー族やシャイアン族の土地で、彼らはときに測量隊や工事の一行を襲った。鉄道は軍に守られながら進んだ。

1869年に入ると、二つの会社は少しでも多くの線路を敷こうと競い、ユタでは互いの線路が平行して何十マイルも並んで敷かれる有様になった。議会はようやく、ソルトレイク湖の北のプロモントリー・サミットで両者をつなぐと決めた。4月28日、セントラル・パシフィックの一団は、一日に10マイルの線路を敷くという記録を作った。
1869年5月10日、プロモントリー・サミットで、両側から延びてきた線路が結ばれた。最後の枕木に、カリフォルニアの金で作った犬釘が置かれた。スタンフォードが銀のハンマーを振り下ろしたが、犬釘を打ち損ねたと伝えられる。ハンマーと犬釘には電信線がつながれていて、打った瞬間に全国へ知らせが届く段取りになっていた。電信士は「完了」とだけ打った(モールスの電信)。ワシントンでは祝砲が鳴り、ニューヨークやサンフランシスコでは鐘が鳴らされた。二つの機関車が鼻先を突き合わせ、まわりで男たちが酒瓶を掲げる記念写真が撮られた。そこに中国人の姿はほとんど写っていない。

オマハからサクラメントまで、およそ3000キロ。東部からの鉄道とつなげば、ニューヨークからサンフランシスコまで1週間ほどで行けるようになった。一等の運賃は150ドルほどで、安くはなかったが、それまでの数か月の旅とは比べものにならない。同じ1869年には、地球の反対側でスエズ運河の開通も開通しており、世界の距離は一気に縮まった。その後、北と南に別の大陸横断線が次々に敷かれていく。
鉄道は、西部の姿を根本から変えた。移民と開拓者が大量に平原に入り、土地を囲って畑と牧場にした。皮を取るためにバイソンが撃たれ、数千万頭いたとされる群れは、1880年代には絶滅の寸前まで減った(アメリカバイソンの激減)。バイソンに頼って暮らしていた平原の先住民は生きる手段を奪われ、保留地へと追い込まれていった。全国の鉄道が時刻をそろえる必要から、1883年にはアメリカに標準時の時間帯が設けられた。

一方で鉄道会社は、政府の金と土地を手に入れるために議員を買収していた。ユニオン・パシフィックの建設を請け負った会社クレディ・モビリエが議員に株を配っていたことが1872年に明らかになり、大きな汚職事件になった。そして1882年、議会は中国人の労働者の入国を禁じる中国人排斥法を定めた。山にトンネルを掘った人々の同胞が、もう国に入れなくなったのである。開通から150年の2019年、プロモントリー・サミットでの記念式典では、中国系の労働者の子孫たちが写真に加わった。