フィジーへの年季労働移民
概要
奴隷制の廃止後、砂糖農園の労働力としてインドから6万人が送られた。5年契約という建前だった。いまフィジーの人口の4割近くがその子孫になる。
場所
-18.14°N 178.44°E · フィジー
本文
1874年、フィジーはイギリスの植民地になった。首長のカコバウらが島々を譲り渡した翌年、麻疹が持ち込まれ、フィジー人のおよそ3分の1が死んだとされる。初代総督アーサー・ゴードンは、フィジー人の土地を売らせず、村の暮らしを守る方針を取った。フィジー人を農園で働かせない。だが植民地の財政を支えるには、砂糖の農園が要る。
働き手を外から連れてくることになった。それまで太平洋の島々から人をだまし、さらってきて働かせるブラックバーディングが横行し、非難を浴びていた。すでにイギリスの奴隷制廃止法で奴隷制は終わっている。ゴードンが前任地のトリニダードやモーリシャスで見ていたのが、インドからの年季契約労働だった。カリブ海やインド洋の砂糖植民地は、奴隷を失ったあと、この制度で農園を回していた。

1879年5月、最初の移民船レオニダス号がレブカに着き、460人あまりのインド人が降りた。以後1916年まで、およそ6万人が送られる。多くは北インドの農村の出身で、カルカッタから船に乗った。のちには南インドのマドラスからも来た。契約は5年で、さらに5年とどまれば帰りの船賃が出る。それが建前だった。
契約書は英語で書かれ、文字の読めない者がほとんどだった。募集人は仕事が楽で、行き先は近いと言って回ったと、多くの証言が残る。女性は男性100人に対して40人ほどの割合しか送られなかった。働き手の人々は、契約書(アグリーメント)がなまった「ギルミット」という語で、自分たちを「ギルミティヤ」と呼んだ。

航海は2〜3か月かかった。狭い船倉では身分の上下も守れず、違うカーストの者が同じ鍋の飯を食べ、同じ水を飲んだ。船の上で生まれた絆は「船の兄弟」と呼ばれ、着いてからも親族のように付き合ったという。島に着くと、人々は農園ごとに割り当てられ、長屋のような粗末な宿舎に詰め込まれた。一部屋に独身の男3人、あるいは一家族が暮らすのが決まりで、仕切りの壁は天井まで届いていなかった。
農園の仕事は、一日の仕事量が割り当てられ、終わらなければ賃金を引かれ、罰金や禁錮も科された。監督による暴力の訴えも多い。インド人移民の自殺率は、インドの本国よりはるかに高かったことが当時の統計に出ている。21年をフィジーで過ごしたトタラム・サナディヤが帰国後に出した手記は、インドで読まれ、制度への反発を強めた。

インドでは、年季契約は「新しい奴隷制」だという批判が高まった。南アフリカで年季労働者の待遇と闘ったガンディーや、フィジーを訪れて実態を報告したイギリス人宣教師C・F・アンドリューズらが運動を広げる。1916年に送り出しが止まり、1920年1月1日に残っていた契約がすべて打ち切られた。
契約を終えても、多くは帰らなかった。帰る船賃を待つより、土地を借りて自分でサトウキビを作るほうを選んだ者が多い。だが土地の8割以上はフィジー人の共有地で、売られることがない。インド系の人々は土地を借りて耕し、商いに出た。人口はやがて増え、20世紀の半ばにはフィジー人を上回った時期もある。

1970年にフィジーは独立した。土地を持つフィジー人と、経済で力を持つインド系の住民との緊張は、政治の場に持ち込まれた。1987年、インド系の支持を受けた政権が生まれると、軍のランブカ中佐がクーデターを起こした。2000年にも同じ形の政変があった。そのたびにインド系の人々は国を離れ、いまでは人口の4割近くまで比率が下がっている。
年季契約は、奴隷制の後の世界で砂糖を作るための仕組みだった(物語「『砂糖の世界史』で読む世界商品」)。モーリシャスでは今も人口の多数がインド系の子孫であり、ガイアナやトリニダード・トバゴ、スリナム、南アフリカにも同じように渡った人々の子孫が暮らしている。カリブ海やインド洋の歌や料理に、北インドの言葉と味が混ざっているのはそのためになる。