オランダ東インド会社のバタヴィア
概要
会社が国のように領土と軍を持った。株式会社という仕組みが植民地支配の道具になる。
場所
-6.21°N 106.85°E · インドネシア・ジャカルタ
本文
1602年、オランダの各地にあった東インド貿易の会社がまとまり、オランダ東インド会社が生まれた(オランダ東インド会社の設立)。広く出資を募り、出資の持ち分を取引所で売り買いできる仕組みを持った、最も早い株式会社の一つである。同時にこの会社は、オランダの議会から、喜望峰より東で条約を結び、要塞を築き、兵を雇い、戦争をする権限を与えられていた。商社でありながら、国家のように振る舞える組織だった。
会社には、アジアでの拠点となる町が必要だった。ジャワ島の西部、ジャヤカルタ(ジャカルタ)の港には、会社とイギリスの商館があり、現地の王や隣のバンテン王国との駆け引きが続いていた。1619年、会社の総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、イギリス勢と現地の勢力を退けてジャヤカルタの町を焼き払い、その跡に要塞と町を築いた。町の名は、古代にオランダの地に住んだとされる部族にちなんで、バタヴィアと名づけられた。

クーンは、香料の貿易を独り占めにすることを目指した。ナツメグとメースを産するバンダ諸島では、1621年、他国と取り引きを続ける島民を武力で制圧し、多くを殺し、あるいは奴隷として連れ去った(バンダ諸島の虐殺と香辛料の独占)。島には会社のための農園が作られ、連れてこられた奴隷が働かされた。クローブも特定の島だけで栽培させ、ほかの島の木は切り倒させた。値を保つために、作物そのものの量を会社が決めたのである。
クーンは、本国の取締役たちへの手紙で、アジアでの貿易は戦争なしには続けられず、戦争は貿易なしには続けられない、という趣旨のことを書いている。会社にとって武力は、商売の道具の一つだった。

バタヴィアは、運河をめぐらせたオランダ風の町として作られた。会社のアジアでの貿易網の中心であり、日本の長崎の出島、台湾、マラッカ、セイロン、南アフリカのケープなどの商館や拠点は、ここから指示を受けた。1628年と1629年には、ジャワの内陸のマタラム王国がバタヴィアを包囲したが、町は持ちこたえた。クーンは、この2度目の包囲のさなかに町の中で病死している。1642年にタスマンの探検航海(タスマンのタスマニア・ニュージーランド到達)を送り出したのも、バタヴィアの総督だった。
1629年には、バタヴィアを目指していた会社の船バタヴィア号がオーストラリア西岸の沖で座礁し、生存者の間で一部の者が仲間を次々に殺す事件も起きている(バタヴィア号の遭難)。会社の船は、オランダからバタヴィアまで半年以上をかけて喜望峰を回り、途中で多くの乗組員が病に倒れた。アジアの富を本国へ運ぶ道は、それだけの犠牲の上に成り立っていた。日本との関係も、この町を通して結ばれていた。長崎の出島のオランダ商館長は毎年バタヴィアから送られ、日本の銀や銅はここを経てアジア各地の取引に使われた。

町には、オランダ人のほか、中国人、ジャワや周辺の島々の人々、アジア各地から連れてこられた奴隷が暮らした。とくに中国人の商人や職人は町の経済を支えた。しかし1740年、中国人の反乱の噂をきっかけに、町の中国人が大量に殺される事件が起きた。死者は1万人前後とされる。18世紀には、運河の淀んだ水からマラリアが広がり、バタヴィアは東洋の墓場と呼ばれるほど死亡率の高い町になった。
会社は、利益を株主に配当しながら、アジアでは主権者として土地と人を治めた。17世紀には莫大な富をオランダにもたらしたが、18世紀には密輸や汚職、戦争の費用に苦しみ、イギリスとの競争にも押されて、多額の借金を抱えた。1799年、会社は解散し、その領土と負債はオランダの国家が引き継いだ。ジャワをはじめとする島々は、オランダ領東インドとして、国が直接治める植民地になった。

会社が国に代わって植民地を治める形は、オランダだけのものではない。2年早く生まれたイギリス東インド会社も、18世紀半ばのプラッシーの戦いをきっかけに、インドの広い地域を治める支配者になっていった。バタヴィアの名は、日本の占領下にあった1942年にジャカルタに改められ、独立したインドネシアの首都に引き継がれた。旧市街の運河沿いには、会社の時代の市庁舎が今も残っている。