扶南の港市
概要
インドと中国を結ぶ海路の中継地。ローマの貨幣も出土しており、交易網の広さを示す。
場所
10.25°N 105.15°E · ベトナム南部(扶南の港市)
関わった人(1)
ジャヤーヴァルマン2世AD770年頃–AD835年 · その後継の地に国を建てる本文
紀元後のはじめごろ、インドと中国を海で結ぶ道は、まだ一続きの航路ではなかった。インドから東へ向かう船は、ベンガル湾を渡ってマレー半島に着く。そこから先は、半島のくびれた所で荷を降ろして陸路で反対側の海岸へ運ぶか、半島の南端を大きく回るかしなければならなかった。いずれにしても、船は季節風が変わるのを待って、どこかの港で何か月も過ごす。その荷の積み替えと風待ちの場所として栄えたのが、今のカンボジア南部からベトナム南部のメコン川の下流に広がった扶南である。
扶南という名は中国の記録に出てくる呼び名で、国の人々が自分たちを何と呼んでいたかは分かっていない。山を意味するクメール語の言葉を写したものとする説があるが、確かではない。中国の史書は、この国の始まりをこう伝える。海の向こうから来た混塡という男が、土地の女王の柳葉を弓で従わせて妻とし、王になった。インドのバラモンの名カウンディンヤを写した名と考えられ、インドから来た者と土地の首長の結びつきを語る建国の伝説とされる。

3世紀には、范師蔓という王が周りの国々を従え、大きな船を造って海に勢力を広げたと記録される。240年代には、中国南部の呉が朱応と康泰という使者を扶南へ送った。二人の記録は断片しか残っていないが、扶南の人々が城壁を持つ町に住み、王は高い建物に住み、文字や書物を持ち、税を金や銀、真珠、香料で納めていたことを伝えている。
扶南の港の様子は、メコン・デルタの遺跡オケオの発掘で具体的に分かってきた。1944年、フランスの考古学者マルレがここを調べ、運河で区切られた広い町の跡を見つけた。出土品の中には、2世紀のローマの皇帝アントニヌス・ピウスの金貨、インドのブラーフミー文字を刻んだ印章、漢の時代の青銅の鏡、地中海やペルシアのガラスの玉があった。ローマの品は直接運ばれたのではなく、インドの商人の手を何度も経てたどり着いたものと考えられる(ローマの絹)。オケオには玉や金属の細工の工房もあり、運ばれてきた原料を加工して売る町でもあった。町と町は長い運河で結ばれ、その一部は内陸の都とされる遺跡まで延びていた。

扶南の富は、自分で何かを作ることより、交易の要の位置にいることから生まれた。通る船から税を取り、港で食料と水を売り、荷の積み替えを取り仕切る。中国の記録によれば、扶南は南の海の国々の代表として、たびたび中国の宮廷に使節を送った。
この交易の道に乗って、インドの文化が東南アジアへ入ってきた。扶南の王たちはサンスクリットの名を名乗り、サンスクリットの碑文を刻み、シヴァやヴィシュヌの神像と仏像を祀った。中国の史書は、4世紀から5世紀ごろ、インドから再びカウンディンヤという名のバラモンが来て王となり、インド風の制度に改めたと伝えている。こうした変化を「インド化」と呼ぶが、インドの国が軍を送って征服したわけではない。商人や僧、バラモンが行き来する中で、土地の支配者が自らの権威を高めるためにインドの文字や宗教を選び取ったと考えられている。
扶南の繁栄の土台は、5世紀ごろから揺らぎ始めた。航海の技術が進み、船がマレー半島の南端を回ってマラッカ海峡やスンダ海峡を直接抜けるようになると、扶南の港に寄る必要が薄れていった。交易の中心は、やがてスマトラのシュリーヴィジャヤの海上交易に移っていく。
6世紀のなかばには、北のメコン川の中流にいた真臘が力をつけ(真臘の興り)、扶南を圧迫した。7世紀の前半には、扶南は真臘に呑み込まれ、中国の記録からその名が消える。真臘はクメール人の国であり、その流れの中から、9世紀の初めにジャヤーヴァルマン2世が王権を打ち立て、やがてアンコールの時代が来る(アンコールの隆盛)。扶南とクメールの関係については、同じクメール系の人々の国とみる説と、別の人々の国とみる説があり、決着していない。
オケオの遺跡は、2010年代以降もベトナムの研究者による発掘が続き、建物の基礎や墓が次々と見つかっている。扶南は、文字の記録をほとんど残さなかった国だが、港に落ちた小さな金貨や印章が、東西の海が早くから一つにつながっていたことを語っている。