大秦王安敦の使者
概要
「大秦王安敦」の使者が海路で日南に着き、象牙と犀の角を献じた、と後漢書が記す。マルクス・アウレリウスの使者か、商人の名乗りかは分からない。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
本文
5世紀に編まれた歴史書『後漢書』の「西域伝」に、短い記事がある。桓帝の延熹9年、西暦166年、大秦王安敦が使者を送り、日南の郡境の外から象牙、犀の角、玳瑁を献じた。これによって、はじめて一度交わりが通じた、と。
大秦とは、漢の人びとが西の果てにあると考えた大国で、ローマ帝国、とくにその東方の地中海世界を指すと考えられている。『後漢書』によれば、その国は石の城壁を持ち、郵便の宿駅が整い、王は常に一人に定まらず、ふさわしい者を選んで立てる。人びとは背が高く公正で、中国の人に似ているので「大秦」と呼ぶのだという。伝聞に想像が混じった記述だが、遠い西方に、漢と並ぶ文明の国があることは知られていた。

安敦は、アントニヌスの音を写したものとされる。166年のローマの皇帝はマルクス・アウレリウス、正式な名はマルクス・アウレリウス・アントニヌスで、その5年前まではアントニヌス・ピウスが帝位にあった。時期は合う。
ただ、献上品が奇妙だった。象牙も犀の角も玳瑁も、東南アジアやインドの産物で、ローマの品ではない。『後漢書』自身も、献じた品に珍しいものは何も無く、伝えた者が話を大きくしたのではないかと疑っている。このため現在では、皇帝が送った正式の使節ではなく、インド洋を行き来する商人が、ローマの使者を名乗って漢の宮廷に入ったのだろうと考えられている。来たのは陸の道ではなく、海の道だった。

日南郡は、漢の最も南の郡で、いまのベトナム中部にあたる。その先のメコン川の河口近くには、オケオと呼ばれる港町の遺跡があり、アントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウスの名を刻んだローマの金のメダルが見つかっている。インドの港を経て東南アジアへ、さらに中国の南の海へと、品物は人の手から手へ渡っていた。
ローマの側にも、東の海の知識は少しずつ届いていた。2世紀の半ばにアレクサンドリアのクラウディオス・プトレマイオスがまとめた地理書は、アレクサンドロスという船乗りの話として、黄金の半島を越えた先にカッティガラという港があると記している。その場所は分かっていないが、東南アジアか中国の南の海岸のどこかと考えられている。絹を生む国「セレス」の名も、ローマの人びとは知っていた。
漢の側からも、手は伸ばされていた。西域を治めた班超は、97年、部下の甘英を大秦へ送った(班超の西域経営)。甘英はパルティアの西の果て、海の岸まで達した。だが船を出そうとすると、パルティアの船乗りが言った。海は広く、風がよければ3か月、悪ければ2年かかる。だから渡る者は3年分の食糧を持っていく。海の上では故郷が恋しくなり、死ぬ者も多い。甘英はそれを聞いて引き返した。
『後漢書』は、その理由も書いている。大秦の王はつねに漢と使節を通わせたいと望んでいたが、パルティアが漢の絹を自分の手で大秦に売ろうとして、間をさえぎっていたのだ、と。パルティアにとって、東西の交易の仲立ちは大きな利益の源だった(パルティア)。ローマでは絹が高値で取引され、元老院が男性が絹を着ることを禁じたり、学者のプリニウスが東方の贅沢品に金が流れ出ると嘆いたりしていた(ローマの絹)。
166年という年は、ローマの側から見ても特別な年だった。ローマはその少し前までパルティアと戦い、165年には敵の都クテシフォンを落としていた。その東方の遠征から帰る軍が、疫病を帝国に持ち込んだとされる(アントニヌスの疫病)。漢の側でも、この時期には疫病の流行が記録されている。人の行き来とともに、病もまた広い範囲を動いていた。

この後も、記録は途切れ途切れに続く。3世紀の初め、大秦の商人と称する秦論という人物が、海路で南の呉の国に来て、孫権に会ったと伝えられる。だが、ローマと中国の宮廷が互いに正式な使者を送り合ったことは、ついに一度も確かめられていない。
それでも、この一行の記事は、ユーラシアの東と西の二つの大帝国が、互いの存在を知り、届かないながら手を伸ばしていたことを示している。直接の出会いが無いまま、絹は西へ、ガラスや香料は東へ、病は両方へと運ばれていた。