ブラックバーディング

概要
太平洋の島々から、6万人以上が騙されるか攫われるかしてクイーンズランドやフィジーの農園へ運ばれた。奴隷貿易ではないという建前で、40年続いた。
場所
-18.14°N 178.44°E · フィジー
本文
19世紀の半ば、南太平洋の西側に、安い労働力を求める農園が次々にできた。オーストラリア北東部のクイーンズランドでは、暑い海岸の低地でサトウキビの栽培が始まった。フィジーでは、1860年代にアメリカの南北戦争で綿花の値が跳ね上がったのを受けて、綿花の農園が開かれた。白人の労働者は暑さの中の重労働を嫌い、賃金も高い。目をつけられたのが、メラネシアの島々に住む人びとだった。
1863年、クイーンズランドの実業家ロバート・タウンズの船が、いまのバヌアツなどの島から60人あまりを連れてきた。これが始まりとされる。以後、労働者を集める船が、ニューヘブリディーズ(いまのバヌアツ)、ソロモン諸島、ロイヤルティ諸島、ニューギニアの周りの島々を回った。

形の上では、3年の年季契約による出稼ぎだった。賃金は年に6ポンドほどで、契約が終われば島へ送り返す決まりになっていた。しかし、契約書を読める島民はほとんどいない。何に同意したのか分からないまま船に乗った人が多かった。贈り物で釣った例、宣教師のふりをして人を集めた例が伝えられる。カヌーを沈めて、海に投げ出された人を拾い上げた船、村を襲って連れ去った船もあった。こうした人集めを、肌の黒い人を「黒い鳥」に見立てて、ブラックバーディングと呼んだ。
ペルーの船によるポリネシアでの人狩りは、さらに露骨だった。1862年から翌年にかけて、ペルーの船は太平洋の島々から数千人をさらい、農園や家の働き手として売った。イースター島(ラパ・ヌイ)では千人以上が連れ去られた。生き残って島に戻されたわずかな人が天然痘を持ち帰り、島の人口はさらに激減した(モアイの造営)。

1871年、メラネシアで宣教していた英国国教会の主教ジョン・コールリッジ・パテソンが、サンタクルーズ諸島の島で殺された。少し前に、人を集める船に島の若者たちがさらわれていて、その報復だったとされる。同じ年には、カール号という船で、船倉に閉じ込めた島民が暴れたのに対して乗組員が銃を撃ち込み、数十人を殺す事件も起きた。イギリスでは怒りの声が上がり、1872年、太平洋の島民の誘拐を取り締まる法律ができた。クイーンズランドも、募集の船に政府の監督官を乗せる決まりを作った。それでも、監督官が見て見ぬふりをする例は後を絶たなかった。
40年あまりで、6万人以上がクイーンズランドへ運ばれたとされる。フィジーへも2万人以上が送られ、ニューカレドニアやサモアにも同じことが起きた。農園での暮らしは過酷で、慣れない病気にかかって死ぬ人が多かった。死亡率は、同じ土地で働くヨーロッパ人よりはるかに高かった。小さな島では、働き盛りの男性が一度にいなくなり、村の暮らしが成り立たなくなった例もある。

一方で、時代が下ると、自分の意思で何度も出稼ぎに来る人も現れた。持ち帰った鉄の道具や銃は、島の暮らしと村どうしの力関係を変えた。どこまでが誘拐で、どこからが自発的な出稼ぎだったのかは、研究者のあいだでも議論がある。ただ、少なくとも初めの時期に、騙しと暴力が広く行われたことは疑われていない。
終わりをもたらしたのは、人道ではなく人種の政策だった。1901年に成立したオーストラリア連邦(オーストラリア連邦の成立)は、白人の国を目指す白豪主義を掲げ、最初の議会で、太平洋の島民の労働者を締め出す法律を通した。1904年を最後に新たな募集は止まり、1906年からは、残っていた人びとの多くが島へ強制的に送り返された。オーストラリアで生まれ育ち、親の島を知らない子どもたちも、船に乗せられた。長く住んでいた人などが例外として残ることを許されたが、その数は二千人に満たなかったとされる。

残った人びとの子孫は、いまオーストラリア南洋諸島人と呼ばれ、クイーンズランドの海岸の町々に暮らしている。1994年、オーストラリア政府は彼らを、固有の歴史を持つ集団として公式に認めた。フィジーでは、メラネシアの労働者に続いて、インドからの年季労働者が大量に入ってくる(フィジーへの年季労働移民)。海を越えて人を動かし、農園を回す仕組みは、形を変えて続いた。