アクスムの紅海交易
概要
ローマとインドを結ぶ中継地として栄え、独自の貨幣を発行した。同時代の記録が「世界四大国」に数えている。
場所
15.26°N 39.65°E · エリトリア(アクスムの外港)
本文
エチオピア北部の高原、標高2000メートルを超える土地に、アクスムという町がある。紀元前後から7世紀ごろまで、ここを都に栄えた王国が、紅海の南の出口を押さえる交易国家だった。高原は雨に恵まれて麦がよく育ち、低地の暑さや病気からも守られていた。そこから東へ下った紅海の岸に、アクスムの外港アドゥリスがあった。
1世紀の中ごろ、エジプトのギリシア語を話す商人が書いた航海の手引き『エリュトラー海案内記』(『エリュトラー海案内記』)は、アドゥリスを紅海の大事な市場として紹介している。そこから象牙を産する内陸の都へは8日の道のりで、王はゾスカレスという名で、ギリシア語の読み書きができる、と書く。アクスムはこのころすでに、ローマ世界の商人たちに知られた存在だった。

アドゥリスの港からは、内陸のアフリカの産物が運び出された。象牙、犀の角、亀の甲、香料、金、そして奴隷。入ってきたのは、インドの香辛料と綿布、ローマ世界のガラス器やぶどう酒、オリーブ油、金属の道具だった。季節風を使ってインドと紅海を行き来する航路が開かれると、アクスムはローマとインドを結ぶ海の道の中継地として重みを増していった。
3世紀の終わりごろから、アクスムは独自の貨幣を発行し始めた。金貨、銀貨、銅貨があり、表には王の姿と名がギリシア語で刻まれた。金貨を自ら鋳造できた国は、当時の世界にはごくわずかしかない。ギリシア語の銘は、外国の商人を相手にした交易のための貨幣だったことを示している。

同じ3世紀、ペルシアで新しい宗教を開いたマニは、世界の四つの大きな王国として、ペルシア、ローマ、アクスム、中国を挙げたと伝えられる(マニ教の成立)。マニの教えを伝える書物に残るこの言葉は、アフリカの高原の王国が、当時の人々の目にどれほど大きく映っていたかを示している。
アクスムの力を今に伝えるのが、都に残る石の碑だ。一枚の花崗岩から切り出した巨大な石柱で、表面には何階建てもの建物の窓や扉が彫り込まれている。王たちの墓の目印として立てられたものとみられ、最大のものは高さ30メートルを超えたが、立てるときか立てた後に倒れて砕けた。20世紀にイタリアがエチオピアを占領した際に一本をローマへ運び去り、2005年にようやく返還された。
4世紀の半ば、エザナ王がキリスト教を受け入れた(アクスムのキリスト教化)。王にキリスト教を伝えたのは、シリア出身の青年フルメンティウスだったと伝えられる。少年のころ船旅の途中で捕らえられてアクスムの宮廷に仕え、のちにアレクサンドリアで司教に任じられて戻ってきた人物である。エザナの時代の貨幣は、はじめは太陽と月を表す古い神々のしるしを刻んでいたが、やがて十字架に変わる。ローマ帝国でキリスト教が公認されたミラノ勅令から数十年後のことで、アクスムは世界でも最も早くキリスト教を受け入れた国の一つになった。この信仰は、いまのエチオピア正教会にまで、1600年以上にわたって受け継がれている。

アクスムは武力でも周りに力を及ぼした。エザナは、ナイル川の上流のクシュの地へ兵を出したことを碑文に刻んでいる。6世紀の前半には、カレブ王が紅海を渡って南アラビアに攻め込み、キリスト教徒を迫害したとされるヒムヤルの王を倒して、一時その地を支配下に置いた。紅海の両岸にまたがる力を持ったのは、このころが頂点だった。
7世紀の初め、アラビアでイスラームが興ったとき、アクスムはその最初の信徒たちを迎え入れている。メッカで迫害された人々の一部が海を渡ってアクスムに逃れ、キリスト教徒の王に保護された。イスラームの伝承では、この王は公正な君主として敬意をもって語られる。

だが、7世紀からアクスムは衰えていく。イスラーム勢力がアラビアからエジプト、シリアへ広がると、紅海の交易はムスリムの商人の手に移り、アドゥリスは寂れた。ローマ(東ローマ)との交易も細った。都の周りでは、長い間の耕作や森の伐採で土地がやせていたとも考えられている。王国の中心は、しだいに高原の南へ移っていった。
海から切り離された王国は、山の中で独自の道を歩んだ。周りがイスラームの国々に変わっていく中で、高原のキリスト教の王国は孤立しながら信仰を守り、その記憶はのちのザグウェ朝やソロモン朝(エチオピア・ソロモン朝の成立)に受け継がれる。アクスムは今もエチオピア正教会の聖地であり、教会の典礼には、アクスムの時代の言葉ゲエズ語が使われ続けている。