張騫の西域派遣
概要
匈奴を挟撃する同盟を探して送られた使者が、中央アジアの情報を持ち帰った。絹の道の始まり。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
漢の武帝BC156年–BC87年 · 派遣本文
紀元前2世紀の漢にとって、最大の脅威は北の草原の遊牧国家、匈奴だった。漢を開いた高祖は紀元前200年、匈奴の冒頓単于に白登山で包囲されて危うく命を落としかけ、以後の漢は皇女を嫁がせ、絹や酒や穀物を毎年贈ることで和平を買い続けた。それでも匈奴の騎馬隊は国境を越えて略奪を繰り返した。紀元前141年に即位した若い漢の武帝は、この屈辱の関係を終わらせ、匈奴と戦うことを考えていた。
そこへ、匈奴の捕虜から一つの話がもたらされた。かつて西方にいた月氏という民族が匈奴に敗れ、王は殺され、その頭蓋骨は匈奴の単于の酒杯にされた。月氏は西へ逃れ、匈奴を深く恨んでいる、というのである。この月氏と手を結べば、匈奴を東西から挟み撃ちにできる。武帝は、遠い西方へ使者を送ることにした。

志願したのが、宮廷に仕える郎官の張騫だった。紀元前139年頃、張騫は100人余りの一行を率いて都の長安を出た。案内役には、匈奴出身の甘父という従者がいた。だが月氏の地へ行くには、匈奴の勢力圏を通らねばならない。一行はすぐに匈奴に捕らえられた。単于は、月氏は我々の北にいる、漢がそこへ使者を送るなら、我々が南の越へ使者を送ることを漢は許すか、と言って張騫を留め置いたと伝えられる。
抑留は10年余りに及んだ。張騫は匈奴の女性を妻に与えられ、子どもも生まれた。それでも、使者の証である節を手放さなかったと『史記』は書く。監視が緩んだ隙をついて、張騫は一行の者たちと脱出し、西へ向かった。天山山脈の南を進み、いまのウズベキスタン東部のフェルガナ盆地にあった大宛に着き、そこからさらに康居を経て、ようやく大月氏のもとにたどり着いた。

ところが、大月氏はもう戦う気を失っていた。アム川の流域に移った彼らは、南のバクトリア、漢でいう大夏を従え、肥沃な土地で豊かに暮らしていた。はるか東の漢と組んで、恐ろしい匈奴に復讐する理由は無かったのである。張騫は1年余り滞在して説得を試みたが、同盟はならなかった。
帰り道も平坦ではなかった。匈奴を避けて南の崑崙山脈の側を通ったが、再び匈奴に捕らえられ、さらに1年余り抑留された。単于が死んで後継ぎ争いが起きた混乱に乗じて、ようやく逃げ出す。紀元前126年頃、張騫は長安に帰り着いた。出発から13年。100人余りの一行のうち、戻ったのは張騫と甘父の2人だけだった。

使命としては失敗だった。だが張騫が持ち帰った情報は、漢の人々の世界の見え方を変えた。その報告は司馬遷の『史記』大宛列伝に残っている。西方には、城壁に囲まれた町に住み、畑を耕し、ぶどう酒を作る人々の国がいくつもある。大宛には、血のような汗を流す名馬がいる。安息、つまりパルティアは大国で、商人たちが車や船で遠くまで交易している。
中でも武帝の関心を引いたのは、大夏で見たという品だった。張騫は市場で、四川の邛で作られた竹の杖と、蜀の布を見つけた。どこから来たのかと尋ねると、東南の身毒という国、つまりインドで商人から買ったという。四川からインドを経てバクトリアに至る、漢の知らない交易の道があることになる。武帝は南西からインドへ抜ける道を探らせたが、山岳の諸族に阻まれて成功しなかった。

張騫はその後、匈奴との戦いで地理の知識を生かして将軍衛青の遠征に従い、博望侯に取り立てられた。一度は合流に遅れた罪で官位を失ったが、紀元前119年頃、今度は天山の北の烏孫へ同盟を求める2度目の使節を率いた。このときも同盟は成らなかったが、張騫は副使たちを大宛、康居、大月氏、大夏、安息、身毒などへ送り出し、各国の使節を伴って帰国した。張騫は帰国の翌年頃に世を去っている。
この間に、漢は武力で西への道を開いていった。霍去病の河西遠征で匈奴を追い払った河西回廊には、のちに武威・張掖・酒泉・敦煌の4郡が置かれる。汗血馬を求めた武帝は大宛遠征(汗血馬)で大宛まで軍を送った。西方からはぶどうやウマゴヤシが伝わり、漢からは絹が西へ運ばれ、やがてローマの絹に見られるように、はるかローマにまで届く。

司馬遷は、張騫の功績を、それまで通じていなかった道に穴を穿ったという意味で「鑿空」と呼んだ。
張騫の墓は、故郷とされる陝西省の漢中盆地、城固県に残っている。2014年、中国・カザフスタン・キルギスの3か国にまたがる「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」が世界遺産に登録されたとき、この墓もその構成資産の一つに選ばれた。2000年以上前の失敗した使節の墓が、東西交流の始まりを記念する場所になっている。「シルクロード」という呼び名は、ずっと後の19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが広めたものである。東西を結ぶ交易そのものは、張騫の前から、ソグドの人々のような中央アジアの商人たちによって細々と営まれていた。張騫が開いたのは、漢という国家がその道を知り、自ら手を伸ばそうとする時代だった。匈奴と戦うための軍事の使節が、結果として東西の交流の扉を開いたことになる。