マデイラの植民
概要
無人の島を、ヘンリー航海王子の船が見つけ、森を7年焼いて、砂糖を植えた。奴隷が切った。1450年代にヨーロッパ最大の砂糖の産地。カナリアへ、サントメへ、ブラジルへ、カリブへ。「砂糖と奴隷」の型は、この島で作られた。コロンブスは島の娘と結婚した。
場所
32.65°N -16.91°E · ポルトガル
関わった人(1)
エンリケ航海王子AD1394年3月4日–AD1460年11月13日 · 送った本文
アフリカ大陸の北西の沖、リスボンから南西へ1000キロほどの大西洋に、マデイラ諸島がある。古代や中世の地図にそれらしい島が描かれたこともあるが、人が住んだ跡はなかった。15世紀の初め、ポルトガルは北アフリカのセウタを攻め取り(セウタ攻略)、王子のエンリケ航海王子のもとで、アフリカの西の海岸に沿って南へ船を送り始めていた。
1418年ごろ、エンリケの家臣のジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコとトリスタン・ヴァス・テイシェイラの船が嵐に流され、小さな島に流れ着いた。救われた港という意味で、ポルト・サントと名付けられた。翌年、彼らは南西の水平線に見える大きな島に渡った。島は全体が深い森に覆われていた。ポルトガル語で「木」を意味するマデイラという名は、そこから付いた。
1420年代、エンリケは島を自分の領地として、ザルコとテイシェイラにそれぞれ島の半分を治めさせ、ポルト・サントはバルトロメウ・ペレストレロに任せた。ポルトガル本土から入植者が渡り、森を切り開いた。畑を作るために森に火を放つと、火は7年燃え続けた、という話が伝わっている。誇張された伝承だろうが、島の森が大きく失われたことは確かである。
最初に植えられたのは小麦で、本土に送るほどとれた。やがてエンリケの命で地中海のシチリアからサトウキビが持ち込まれたとされる。島の急な斜面に段々の畑を作り、山の水をレヴァダと呼ばれる長い水路で引いた。サトウキビを搾るには水車が要る。1450年代には砂糖づくりが本格的に始まり、ヴェネツィアの商人カダモストは1455年に、島には砂糖が豊かにとれると書き残した。15世紀の終わりには、マデイラはヨーロッパで最大級の砂糖の産地になり、砂糖はリスボンからフランドルやイタリアへ運ばれた。それまで薬や贅沢品だった砂糖が、少しずつ多くの人の口に届き始めた。

畑と製糖所で働いたのは、入植者だけではなかった。カナリア諸島から連れてこられた先住民や、北アフリカやアフリカ西海岸から連れてこられた奴隷が加わった。ポルトガルの船がアフリカの海岸を南へ進み、ボハドル岬の突破の後、アフリカの人々を捕らえて売り買いする取引が始まっていた。マデイラでは小さな畑を持つ入植者も多く、後のブラジルやカリブの島々ほど奴隷に頼り切ってはいなかったと見る研究者もいる。それでも、海の向こうの島で、連れてこられた人々の労働によって、ヨーロッパに売る作物を作るという仕組みが、ここで形をとり始めた。
その仕組みは、大西洋を南へ西へと広がっていく。15世紀の終わりから、赤道直下のサントメ島で、奴隷を大勢使う砂糖の農園が作られた。16世紀にはブラジル、17世紀にはカリブの島々へ(カリブの砂糖プランテーション)。マデイラの砂糖職人や技術は、その先々に持ち込まれた。大西洋をまたぐ奴隷貿易と砂糖の農園の組み合わせは、ここから始まる長い歴史を持つ。
この島には、のちに大西洋を渡る男も来ていた。若いジェノヴァ人のコロンブスは1478年、商社の依頼で砂糖を買い付けにマデイラを訪れた。その後、ポルト・サントの領主ペレストレロの娘フィリパと結婚し、しばらくポルト・サントに住んだとされる。義父が残した航海の記録や海図を見た、と息子の書いた伝記は伝える。1493年、2度目の航海で、コロンブスは大西洋の向こうのイスパニョーラ島へサトウキビを持ち込んだ。
16世紀に入ると、マデイラの砂糖はブラジルの安い砂糖に押されて衰えた。代わりに島を支えたのはぶどう酒だった。熱帯を越える船の中で揺られ、温められたぶどう酒は、かえって味がよくなった。のちには蔵で温めて熟成させる方法が工夫され、強く長持ちするマデイラ酒は大西洋を渡る船に積まれ、北アメリカの植民地で好まれた。アメリカの独立宣言が署名されたとき、マデイラ酒で乾杯したと伝えられる。

いまマデイラはポルトガルの自治州で、州都フンシャルの空港には、この町に生まれたサッカー選手クリスティアーノ・ロナウドの名が付いている。島の北の険しい斜面には、かつて島を覆っていた照葉樹の森が残っていて、世界遺産になっている。焼き尽くされずに残った森である。