ローマの絹
概要
元老院が男性の絹の着用を禁じた。国富が東へ流れる、と大プリニウスが嘆いている。作り方を知らないまま、木に生える綿毛だと考えられていた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
紀元前2世紀、漢の張騫の西域派遣をきっかけに、中国と中央アジアを結ぶ道が開かれた。絹はその道を西へ、オアシスの町から町へと受け渡されていった。途中では、パルティア(いまのイランを中心とする国)をはじめ多くの商人が間に入り、それぞれが利を乗せた。地中海に届くころには、絹は途方もなく高い品になっていた。ローマの人々は絹を「セリカ」と呼び、それを作る東の果ての人々を「セレス(絹の人)」と呼んだ。だが、セレスがどこに住み、どんな人々なのか、正確に知る者はいなかった。
ローマで絹が目立って出回り始めたのは、紀元前1世紀の終わりから紀元1世紀にかけて、アウグストゥスが内乱を終わらせて帝国に平和が訪れたころである。豊かになった都の上流階級は、東方の贅沢品を競って求めた。絹の布は薄く軽く、光沢があり、染めた色が鮮やかに出た。とりわけ薄く織られたものは、身にまとうと体の線が透けて見えた。

哲学者セネカは、身を隠すこともできず、恥じらいを守ることもできない衣を着て、それを服と呼べるのか、と書いた。女たちは、その衣によって、夫が寝室で見る以上のものを、公の場で見知らぬ人々に見せている、と。絹は、贅沢と道徳の乱れの象徴として非難の的になった。
紀元16年(ティベリウス帝の治世の初め)、元老院は、男性が絹の衣を身につけることを禁じる決議をした。歴史家タキトゥスは、黄金の器で食事をすることの禁止とあわせて、絹の衣が男をけがすことのないように、とこの決議を伝えている。女性の着用までは禁じられなかった。こうした贅沢を取り締まる法は、その後もたびたび出されたが、守られたとは言いがたい。

絹への非難には、お金の流れへの心配も込められていた。1世紀の博物学者プリニウスは『博物誌』のなかで、インドと中国とアラビアは、少なく見積もっても毎年1億セステルティウスを我らの帝国から奪っている、それほど高くついているのだ、我々の贅沢と女たちは、と嘆いた。代金は金貨や銀貨で払われ、それが東へ流れていった。実際、インドの南部では、ローマの金貨や銀貨がまとまって大量に見つかっている。ローマの商人がエジプトから紅海を経てインドへ向かい、そこで中国から運ばれてきた絹や胡椒を買い付けていたことは、『エリュトラー海案内記』からも分かる。
ローマ人は、絹がどうやってできるのかを知らなかった。プリニウスは、セレス人は森の木の葉に生える白い綿毛を水に浸して梳き取り、それを布に織るのだ、と書いている。地中海にも、ギリシアのコス島などで、野生の蛾の繭から糸を取る技術はあったが、中国の家で飼う蚕の糸とは比べものにならなかった。中国は、蚕と桑と、糸を取る技術を外へ出すことを固く禁じていた。

ローマと中国は互いの存在を知りながら、直接には出会えなかった。97年、後漢の西域都護の班超は部下の甘英を「大秦(ローマ)」へ向かわせたが、甘英はペルシア湾のあたりで、海を渡るには何年もかかると現地の人々に言われて引き返した。間に立つパルティアの商人たちが、直接の取引をさせないよう脅したのだともいわれる。166年には、大秦王「安敦」の使いを名乗る者が海路で後漢に着いたと中国の史書は記すが(大秦王安敦の使者)、皇帝の正式な使節だったのか、商人が名乗っただけなのかは分かっていない。
絹の値は、時代が下っても高いままだった。3世紀のアウレリアヌス帝は、妻に絹の衣をねだられて、糸が同じ重さの金と取引されているものを買うわけにはいかない、と断ったという話が、後世の皇帝伝に残る。この「金と同じ重さ」という言い方は広く知られているが、出典は信頼性の低い書物で、実際の値段を示すものではない。

絹の作り方がついに地中海世界に伝わったのは、6世紀のユスティニアヌス1世の時代である。東ローマの歴史家プロコピオスによれば、東方から来た修道士たちが、蚕の卵を杖の中に隠してコンスタンティノープルへ持ち込んだ(絹の秘密)。それから東ローマでは国営の工房で絹が織られるようになり、絹は皇帝の権威を飾る品になった。ローマの元老院が男たちの絹を禁じてから、500年以上あとのことである。