できごと

イングランド銀行の設立

Bank of England
AD1694年
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ネーデルラント連邦共和国大英帝国スウェーデン帝国モロッコポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインEngland and IrelandScottalndヴェネツィア共和国NaplesルクセンブルクFinnmarkプロイセンAD1694年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1694年の版図を描いています(22勢力)。

概要

フランスとの戦費のために作られた。議会が返済を保証する仕組みで、王が勝手に借りられない国のほうが、かえって安く大きく借りられた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

17世紀のヨーロッパで、戦争はどんどん金のかかるものになっていた。常備の軍を養い、大砲をそろえ、要塞を築き、艦隊を浮かべる。一度の戦争で、国の年収の何倍もの金が出ていく。足りない分は借りるしかない。どれだけ多く、どれだけ安く借りられるかが、戦争の勝ち負けを左右するようになっていた。

イングランドの王たちは、借金について評判が悪かった。王は国の法の上にいて、返さないと決めれば、貸し手には取り立てる手段が無い。1672年、チャールズ2世は、ロンドンの金細工師の銀行家たちから借りていた金の返済を、一方的に止めた。「国庫の支払い停止」と呼ばれるこの出来事で、多くの銀行家が破産し、その預金者も財産を失った。貸し手の記憶に、長く残った。

1688年、名誉革命が起きた(名誉革命と権利章典)。ジェームズ2世が追われ、オランダからウィリアム3世と妻メアリーが迎えられる。翌年の権利章典は、王が議会の同意なしに税を取ることも、平時に軍を置くことも禁じた。国の財布のひもは、議会が握ることになった。

名誉革命と権利章典に関わる図版:William of Orange III and his Dutch army land in Brixham, 1688
名誉革命と権利章典Wikimedia Commons Johan Herman Isings · Public domain

ウィリアム3世は、即位するとすぐに、フランスのルイ14世を相手に大きな戦争を始めた。9年に及ぶ戦争で、費用はふくれあがった。議会は税を上げ、宝くじまで売り出したが(宝くじと国家財政)、それでも足りない。1694年、スコットランド出身の商人ウィリアム・パターソンらの案が採られた。

仕組みはこうだった。貸し手たちが出資して、政府に120万ポンドを年8%の利子で貸す。その見返りに、出資者たちは会社として認められ、銀行の業務を営む特権を得る。利子の支払いには、議会が船のトン数や酒にかける特定の税を充てると、法律で定めた。7月、国王の特許状が出され、イングランド銀行が生まれた。出資の募集は、わずか12日ほどで埋まったという。

イングランド銀行
イングランド銀行Wikimedia Commons Adrian Pingstone · Public domain

大事なのは、貸す相手が、もはや王個人ではなかったことだ。返済を約束しているのは議会で、その議会には、地主や商人、つまり貸し手と同じ立場の人びとが座っている。議会が自分たちの財産を踏み倒すような決定をするとは考えにくい。返済のための税も法律で決められている。貸し手は安心して貸した。

この「信用」が、国家の力になった。イングランドは、銀行を通じて、さらに国債という形で、大きな額を長い期間にわたって安く借りられるようになる。借りた金の利子は税で払い、元本は返さずに借り換えていく。国の借金を、議会が責任を持って管理し続ける仕組みが、18世紀のうちにできあがっていった。歴史家はこれを「財政革命」と呼ぶ。もっとも、すべてが順調だったわけではなく、国債の扱いをめぐる投機の熱狂は、1720年の南海泡沫事件のような大きな破綻も生んだ。

イングランド銀行憲章の調印(1694年)出資者1268人中123人がユグノーであった。7月10日の選挙でユグノーから初代総裁ジョン・ウーブロンがえらばれた。理事は6人であったが、そこに同ウーブロン家のジェームズとアブラハムが席を占めた。
イングランド銀行憲章の調印(1694年)出資者1268人中123人がユグノーであった。7月10日の選挙でユグノーから初代総裁ジョン・ウーブロンがえらばれた。理事は6人であったが、そこに同ウーブロン家のジェームズとアブラハムが席を占めた。Wikimedia Commons Lady Jane Lindsay · Public domain

海峡の向こうのフランス王は、絶対君主だった。議会に縛られず、思うままに税を課し、戦争を始めることができた。だが、その力のぶん、王の約束は信用されなかった。王は何度も借金の支払いを止めたり、利子を一方的に引き下げたりしてきた。だから貸し手は高い利子を求め、借りられる額も限られた。18世紀を通じて、イギリスとフランスは何度も戦ったが、そのたびにイギリスは、人口が少ないにもかかわらず、より大きな戦費を、より安い利子で調達できた。

フランスの財政は、アメリカ独立戦争への参戦のあと、ついに行き詰まった。新しい税を課すには、170年あまり開かれていなかった三部会を召集するほかなかった。1789年、その三部会からフランス革命が始まる。

フランス革命に関わる図版:Anonymous - Prise de la Bastille
フランス革命Wikimedia Commons Unidentified painter · Public domain

イングランド銀行は、やがて政府の銀行であると同時に、銀行たちの銀行になっていった。1734年にはロンドンの金融街のスレッドニードル通りに移り、「スレッドニードル通りの老婦人」というあだ名で呼ばれるようになる。発行する銀行券は、国中で通用する紙幣になった。19世紀には、金融危機のときに他の銀行に金を貸して取り付け騒ぎを鎮める「最後の貸し手」の役目を担うべきだと論じられ(バジョットと最後の貸し手)、近代の中央銀行の手本になった。1946年に国有化され、いまはイギリスの中央銀行として金利を決めている。

『国家はなぜ衰退するのか』(物語「『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史」)は、この銀行を名誉革命の帰結の一つに置いた。王の権力を議会が縛り、権力が多くの人に分けられたことで、財産と約束が守られるようになり、それが金融と経済の発展を生んだ、という筋になる。もっとも、名誉革命の後にどれだけ金利が下がったのか、その効果がどこまで制度のおかげだったのかについては、経済史家のあいだで議論が続いている。

イングランド銀行の建物
イングランド銀行の建物Wikimedia Commons acediscovery · CC BY 4.0

それでも、この銀行の誕生は一つの逆説を示している。王が勝手に借りられない国のほうが、かえって大きく安く借りられた。権力を分けると国が弱くなるのではなく、信用が生まれる。その信用が、のちに世界に広がる帝国を支える財布になった。

出典(3)

ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン(鬼澤忍 訳) 『国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源』第7章 転換点
デヴィッド・グレーバー(酒井隆史 訳) 『負債論 貨幣と暴力の5000年』第11章(大資本主義帝国の時代。国の借金が通貨になる)
カール・ポランニー(野口建彦、栖原学 訳) 『大転換 市場社会の形成と崩壊』第2章(100年の平和を支えた仕組み)

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