人物

ラージャラージャ1世

Rajaraja I
? – AD1014年
チョーラ朝重要度 3

概要

海軍でスリランカと東南アジアまで影響を広げた。南インドが海の帝国になる。

所属

チョーラ朝

関わったできごと(2)

タンジャーヴールの大寺院AD1010年 · 建立チョーラ朝の海上進出AD1025年 · 基礎を築いた

本文

生まれた年は分からない。南インドのカーヴェーリ川の流域を本拠とするチョーラ朝の王子で、即位前の名をアルルモーリ・ヴァルマンといった。チョーラ朝は古くからタミルの地に名が見える王家だが、9世紀に再び興ったときには、北のラーシュトラクータ朝や南のパーンディヤ朝に挟まれた、川沿いの一勢力にすぎなかった。父パラーンタカ2世の死後、父の従兄弟にあたるウッタマ・チョーラがいったん王位に就き、985年になって彼が王となった。王位は譲られるまで待った、と後の碑文は語る。

ラージャラージャ1世を描いた壁画
ラージャラージャ1世を描いた壁画Wikimedia Commons Rajaraja_mural.jpg : The original uploader was Venu62 at English Wikipedia . derivative work: Keyan20 ( talk ) · Public domain

即位すると、まず南と西へ兵を出した。インド半島の西岸、ケーララのチェーラ朝の港を攻め、船団を焼いた。南のパーンディヤ朝を降した。そして海を越え、スリランカの北部へ攻め込んだ。千年以上シンハラの王の都だったアヌラーダプラは略奪を受け、チョーラは北部を州として治め、都をポロンナルワに移した。さらに西の海に浮かぶモルディブの島々にまで艦隊を送った。碑文はこれを「古い島々、1万2千の島」を取ったと誇っている。

海を越えて軍を送るインドの王朝は、多くない。チョーラの力の源は、ベンガル湾の交易にあった。タミルの商人の組合は、東南アジアや中国まで船を出しており、王はその交易の安全を守り、利益を取った。王国の北では、デカンの西チャールキヤ朝と長く戦い続けている。

ラージャラージャとその兄アディタ・カリカーランが師と会う壁画
ラージャラージャとその兄アディタ・カリカーランが師と会う壁画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

治世の25年目にあたる1010年、都タンジャーヴールに大寺院を完成させた。シヴァ神を祀るブリハディーシュヴァラ寺院で、王の名をとってラージャラージェーシュヴァラとも呼ばれた。本殿の上にそびえる塔の高さは60メートルを超え、当時のインドで最も高い建物だったとされる。頂上に載る石は一枚岩で80トンある、とよく言われ、長い斜路を築いて運び上げたという話も伝わるが、実は複数の石を組んだものだとする調査もある。いずれにせよ、花崗岩の採れない土地に、遠くから石を運んで積み上げた工事だった。

寺院の壁には、王や王妃、役人や商人の寄進の記録が、タミル語で隙間なく刻まれている。どの村がどれだけの米を納めるか、灯明の油のために何頭の羊が寄進されたか。寺に仕える400人の踊り子の名と、それぞれに与えられた家の場所、楽師や職人の取り分まで書いてある。寺院は祈りの場であると同時に、土地を持ち、金を貸し、人を雇う経済の中心でもあった。当時の南インドの社会と経済を知るための、第一級の記録になっている。

カニャークマリ近郊スチンドラムのラージャラージャ王の碑文
カニャークマリ近郊スチンドラムのラージャラージャ王の碑文Wikimedia Commons T. A. Gopinatha Rao Half-tone by Photo Engraving Company, Madras (India) · Public domain

王の名「ラージャラージャ」は「王の中の王」を意味する。即位した後に名乗った称号で、本来の名はアルルモーリのほうである。大寺院の名も、この称号から取られている。

統治の仕組みも整えた。国中の土地を測量して税の基準を定め、村の自治の集会を通じて税を集めさせた。王の功績を、決まった書き出しの文で碑文の冒頭に並べる習わしも、彼の時代から定まったとされる。

ラージャラージャ王の壁画
ラージャラージャ王の壁画Wikimedia Commons Rajaraja_mural.jpg : Original uploader was Venu62 at en.wikipedia derivative work: Keyan20 ( talk ) · Public domain

興味深い記録がある。マラッカ海峡を押さえるシュリーヴィジャヤの海上交易の王は、チョーラの港ナーガパッティナムに仏教の寺院を建てた。ヒンドゥーの王であるラージャラージャは、その寺院のために村を寄進している。この記録は銅板に刻まれ、のちにオランダのライデンに渡って残った。交易の相手どうしの、友好のしるしだった。

1014年に死去した。王位を継いだ息子のラージェーンドラ1世は、父の海軍をさらに東へ動かす。1025年、そのシュリーヴィジャヤの港々を攻めたのである(チョーラのシュリーヴィジャヤ遠征)。友好は10年あまりで敵対に変わった。交易路をめぐる争いだったと考えられている(チョーラ朝の海上進出)。

タンジャーヴールの寺院は、いまも祈りの場として使われ、ユネスコの世界遺産に登録されている。南インドの一王朝を、ベンガル湾をまたぐ海の帝国に変えた王は、その寺院の壁に刻まれた無数の名とともに記憶されている。

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