ナバテア人のペトラ
概要
砂漠の岩の谷に、水路とダムで町を作った。乳香と没薬の道の要にあり、岩を彫って神殿の正面を刻んだ。ローマに併合されて商路が変わり、忘れられる。
場所
30.33°N 35.44°E · ヨルダン
本文
ナバテア人は、アラビア半島の北の砂漠に暮らしていた遊牧の民である。紀元前4世紀の終わり、彼らのことを記録したギリシアの歴史家の話が、後の時代の書物に残っている。彼らは家を建てず、穀物を植えず、ぶどう酒も飲まない。それを破った者は死罪になる。家や畑を持てば、それを守るために強い者に従わなければならなくなるからだ、と。砂漠のあちこちに水をためる穴を掘ってその場所を隠し、敵が来れば砂漠の奥に逃げ込んだ。
紀元前312年、アレクサンドロスの後継者の一人アンティゴノスの軍が、ナバテア人の拠点「岩」を襲った。男たちが祭りのために留守にしている間に、残っていた女や子どもと財宝を奪ったが、戻ってきたナバテア人に追いつかれ、ほとんど全滅したという。その「岩」が、のちのペトラだったと考えられている。

ペトラは、いまのヨルダン南部、赤い砂岩の山に囲まれた盆地にある。入口はシークと呼ばれる岩の裂け目で、幅は狭いところで数メートル、両側の崖は高さ数十メートルにそそり立ち、1キロあまりも曲がりくねって続く。守るには、これほど都合のよい場所はない。
ナバテア人を富ませたのは、交易だった。南アラビアで採れる乳香や没薬は、神殿で焚かれ、薬や香料として地中海の世界で高く売れた(乳香の道)。ラクダの隊商はアラビア半島を北へ縦断し、ペトラを経て、地中海岸のガザやダマスクスへ向かった。ナバテア人はこの道を押さえ、隊商に水と宿と護衛を提供し、通行料を取った。のちにはインドの香辛料や、遠く中国の絹も、この道を通った。

遊牧の民は、やがて町を作った。王が立ち、貨幣を鋳造し、独自の文字で碑文を刻んだ。ナバテア人の文字は、のちのアラビア文字のもとになったとされる。紀元前1世紀から紀元1世紀にかけて、ペトラは最も栄え、人口は2万前後に達したと見積もられている。新約聖書には、ナバテアの王アレタスの代官がダマスクスでパウロを捕らえようとし、パウロが籠に乗って城壁から吊り下ろされて逃れた話が出てくる。
町の命は、水だった。この地の雨は年に150ミリほどしか降らない。だが、降るときは一度に降り、乾いた谷を鉄砲水が走る。ナバテア人は谷の上流にダムを築いて流れを変え、岩を削った水路と陶器の管で泉の水を町まで引き、岩をくり抜いた貯水槽に雨水をためた。砂漠の真ん中に、噴水や庭のある町が生まれた。1963年、観光客がシークで鉄砲水に呑まれて多数が死ぬ事故が起き、のちに古代のダムが復元された。

ペトラの名を世界に知らしめているのは、岩壁に彫り出された建物の正面である。シークを抜けた先に現れる「エル・ハズネ」(宝物殿)は、高さ40メートル近い岩壁に、円柱や破風や彫像をそなえたギリシア・ローマ風の神殿の正面を彫ったものだ。だが扉の奥には、飾りの無い四角い部屋があるだけである。多くは王や有力者の墓だったと考えられている。山の上には、さらに大きな「エド・デイル」があり、谷には数千人が座れる劇場も岩を削って作られた。
紀元前1世紀、ナバテアはローマの勢力と向き合うことになった。紀元106年、皇帝トラヤヌスはナバテア王国を併合し、属州アラビアとした(ローマ帝国の最大版図)。属州の中心は北のボスラに置かれた。ペトラはしばらくローマの都市として続き、列柱道路や浴場も造られた。
だが交易の流れは変わっていった。ローマの船が紅海を通ってインドと直接行き来するようになり、隊商の道の重みは薄れた。北のパルミラのような別の隊商都市も伸びてきた。363年の大地震で町は大きく壊れ、ビザンツ時代には教会が建てられたものの、やがて人が離れていった。
それから長く、ペトラは土地の遊牧民しか知らない場所になった。1812年、スイス生まれの旅行家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトが、イスラーム教徒の旅人になりすまし、近くの山にある預言者アロンの墓に山羊を捧げたいと言って案内を頼み、その途中でこの町を見た。怪しまれるのを恐れて、ゆっくり見ることもできなかったという。

ペトラは1985年に世界遺産に登録された。映画の舞台にもなり、いまはヨルダンを代表する観光地として、年に数十万から100万人ほどが訪れる。