できごと

バンコクへの遷都

Founding of Bangkok
AD1782年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1782年の版図を描いています(23勢力)。

概要

アユタヤの陥落から15年、ラーマ1世が対岸に新しい都を築いた。焼けた都を意識して再現している。王宮の配置も、寺院の様式も。いまのタイの王朝はここから続く。

場所

トンブリー
13.73°N 100.49°E · タイ・バンコク

本文

1767年4月、400年あまりシャムの都だったアユタヤ(アユタヤ朝の成立)が、ビルマのコンバウン朝(コンバウン朝の成立)の軍に落とされた(アユタヤの陥落)。王宮と寺院は焼かれ、多くの人々が捕虜として連れ去られた。王朝の記録や法典の多くも、このとき失われた。

焼け跡から立ち上がったのが、中国系の父を持つ地方長官のタークシンだった。包囲が終わる前に手勢を率いて都を脱出し、東の海岸で兵を集め直した。その年のうちにビルマの守備兵を追い払い、チャオプラヤー川の西岸のトンブリーに新しい都を置いて王となった。各地に割拠した勢力を一つずつ倒し、国を再びまとめていった。

1770年のシャム・トンキン・ペグー王国の地図(ベラン作)
1770年のシャム・トンキン・ペグー王国の地図(ベラン作)Wikimedia Commons Jakob van der Schley (1715-1779) edition of Jacques Nicolas Bellin's map (1703-1772) · Public domain

その遠征で活躍した将軍の一人が、のちのラーマ1世である。アユタヤの官人の家に生まれ、タークシンに仕えて軍功を重ねた。1779年には北のヴィエンチャン(ランサーン王国)を攻め落とし、そこに祀られていた翡翠の仏像、いわゆるエメラルド仏をトンブリーへ持ち帰った。

タークシンの治世の終わりは謎に包まれている。晩年の王は自分を聖者と称し、僧に自分を拝むよう求めるなど、正気を失ったとされる。1782年、トンブリーで反乱が起き、王は退けられた。カンボジアに遠征していたラーマ1世が都に戻り、王位に就いた。タークシンは処刑された。王が本当に錯乱していたのか、新しい王朝が自らの正しさのためにそう書いたのかは、今も議論がある。

1828年のバンコクの風景(着色図)
1828年のバンコクの風景(着色図)Wikimedia Commons John Heaviside Clark · Public domain

ラーマ1世はすぐに、都を川の東岸へ移すと決めた。東岸は川の湾曲に守られて攻められにくく、西岸の王宮は寺に挟まれて広げる余地が無かった。東岸に住んでいた中国人の商人たちには、少し下流へ移ってもらった。そこが、いまも続く中華街の始まりになる。1782年4月、新しい都の礎として町の柱が立てられた。

新しい都は、意識してアユタヤの姿をなぞった。川と運河で囲まれた島に王宮を置き、そのすぐ隣に王室の寺院を建てて、エメラルド仏を安置した。城壁を築く煉瓦は、アユタヤの廃墟から船で運ばせたという。運河の掘削には、戦争で連れてこられたラオスやカンボジアの人々も働かされた。都には、天人の都に始まる長い長い儀礼の名が付けられた。外国人が呼ぶバンコクという名は、もともとそこにあった小さな村の名である。

西洋式軍服姿のモンクット王(ラーマ4世、在位1853-1868年)の写真
西洋式軍服姿のモンクット王(ラーマ4世、在位1853-1868年)の写真Wikimedia Commons John Thomson · CC0

エメラルド仏は、新しい王朝の守り神になった。暑季、雨季、乾季の三つの季節の変わり目ごとに、国王みずから仏像の金の衣を掛け替える儀式は、今も続いている。ラーマ1世はまた、都の南に古い寺を大きく建て直させた。のちに涅槃仏で知られるワット・ポーである。仏教を篤く守る王であることが、王位の正しさを支えた。

失われたものを取り戻す仕事も進めた。1805年、ある離婚の訴えを裁いた際、手元に残る法の写しが、ねじ曲げられたり誤ったりしていることが分かった。ラーマ1世は学者を集めて法を一から編み直させた。こうしてできた三つの印章を押した法典は、19世紀末に近代法が整うまで国の基本法になった。インドの叙事詩をもとにしたタイ版の『ラーマキエン』(『ラーマーヤナ』の成立)も、王の命でまとめ直されている。

『ラーマーヤナ』の成立に関わる図版:Rāma slays Rāvaṇa
『ラーマーヤナ』の成立Wikimedia Commons Scribes and painters employed by the Kingdom of Mewar. · Public domain

ビルマとの戦いは続いた。1785年、ビルマは大軍を九つに分けて攻め込んだが、ラーマ1世はこれを退けた。新しい都は、生まれて間もなく最初の試練を越えた。

このとき開かれたチャクリー王朝は、いまも続いている。19世紀にはシャムの近代化を進めたラーマ5世を出し、周りの国々が植民地になる中で独立を保った。1932年のタイの立憲革命で国王は政治の実権を失ったが、王家は今もこの都の王宮の主である。焼けた都を写して作られた町は、東南アジア有数の大都市になった。

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