できごと

マジャパヒト王国の隆盛

Majapahit Empire
AD1350年頃
重要度 3
オーストラリア先住民(狩猟採集)ヒンドゥーの小王国群パガン朝シュリーヴィジャヤスコータイ朝ヴィジャヤナガル王国ヒンドゥーと仏教の小国群クメール帝国大越大越Kediriマジャパヒトオリッサチョーラ朝アチェパーンディヤ朝チャンパシンハラ王国AD1350年頃トロウラン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1350年頃の版図を描いています(18勢力)。

概要

ジャワを中心に 島嶼部の広い範囲へ影響を及ぼした。現在のインドネシアが自国の源流として掲げる。

場所

トロウラン
-7.56°N 112.38°E · インドネシア

関わった人(1)

ガジャ・マダAD1290年頃–AD1364年 · 宰相。群島の統一を誓う

本文

13世紀の末、ジャワ島の東部にはシンガサリという王国があった。その王クルタナガラは、大元のフビライ(フビライ・ハン)から送られた服属を求める使者の顔に傷をつけて追い返したと伝えられる。怒ったフビライは、大軍の遠征隊をジャワへ送った。ところが元軍が着いたとき、クルタナガラは国内の反乱ですでに殺されていた。

ここで動いたのが、クルタナガラの娘婿のラデン・ウィジャヤだった。彼は元軍に協力すると申し出て、ともに王を殺した反乱者を討った。そして目的を遂げるやいなや、今度は元軍に襲いかかり、ジャワから追い出した。1293年、ウィジャヤはブランタス川の下流のマジャパヒトの地に都を定め、王となった。マジャパヒトという名は、その地に生えていた苦い(パヒト)マジャの実に由来すると伝えられる。

Kertolo Statue 5136 (310d)
ガジャ・マダWikimedia Commons LinYuKi · Public domain

王国が最も栄えたのは14世紀の中ごろ、ハヤム・ウルク王の時代である。王を支えたのが宰相のガジャ・マダだった。低い身分から身を起こしたとされ、反乱を鎮めた功で宰相に登りつめた人物である。王国の年代記『パララトン』は、ガジャ・マダが宰相に就くとき、ヌサンタラ(ジャワの外の島々)を従えるまでは「パラパ」を口にしない、と誓ったと伝える。パラパが何を指すのかははっきりせず、香辛料とも、楽しみや休息とも解釈されている。この誓いの話は後世の記録によるもので、言葉どおりの事実かは分からない。

ガジャ・マダのもとで、マジャパヒトは周りの島々へ遠征し、影響を広げた。ただし、その道は平らではなかった。1357年、ハヤム・ウルク王は西ジャワのスンダ王国の王女を妃に迎えることになった。ところが、ガジャ・マダはこれを婚姻ではなく服属の印として扱おうとし、王女を送ってきたスンダの王と一行を兵で囲んだ。誇りを傷つけられたスンダの人々は戦い、王も王女も死んだ。ブバトの悲劇と呼ばれるこの事件のあと、ガジャ・マダは表舞台から退いたとされ、1364年ごろに世を去った。

トロウランのスムル・ウパス発掘現場(モジョケルト)
トロウランのスムル・ウパス発掘現場(モジョケルト)Wikimedia Commons Anandajoti Bhikkhu from Sadao, Thailand · CC BY 2.0

1365年、宮廷の僧で詩人のプラパンチャが、王をたたえる長い詩『ナーガラクルターガマ』を書き上げた。そこには、王の巡行の様子や都の姿、儀式とともに、王国に従う土地の名が長々と並んでいる。スマトラ、ボルネオ(カリマンタン)、マレー半島、スラウェシ、マルク(香料諸島)、さらにニューギニアの西部まで、いまのインドネシアの大半にマレーシアの一部を加えた範囲が含まれる。

ただし、これは宮廷が誇らしげに書いたものだ。名を挙げられた土地の多くは、マジャパヒトに貢ぎ物を送ったり、交易で結びついたりしていただけで、王国が役人を置いて治めていたわけではないと見るのが妥当とされる。実際に支配が及んだのは、ジャワ島とその東のバリ島やマドゥラ島など、もっと狭い範囲だった。それでも、ジャワの米と、東の島々の香料、中国やインドの商人を結ぶ交易の中心として、マジャパヒトの名は群島に広く響いていた。

トロウラン出土の浮彫、家にいる夫婦(モジョパヒト博物館)
トロウラン出土の浮彫、家にいる夫婦(モジョパヒト博物館)Wikimedia Commons Anandajoti Bhikkhu from Sadao, Thailand · CC BY 2.0

都があったのは、いまの東ジャワのトロウランである。発掘からは、赤い煉瓦で造った寺院の門や貯水池、運河の跡、中国の陶磁器や銅銭が大量に見つかっている。宮廷はヒンドゥー教と仏教の両方を重んじ、シヴァ神と仏を一つのものとする考えも広まっていた。

その考えを詠んだのが、同じ14世紀の詩人タントゥラルの詩『スタソマ』である。その中に、仏とシヴァは異なるように見えて実は一つであり、真理に二つは無い、という一節がある。ここから取られたのが「ビンネカ・トゥンガル・イカ」、つまり「多様性の中の統一」という言葉だ。

ハヤム・ウルクが1389年に死ぬと、王位をめぐる争いが起き、王国は弱っていった。15世紀には、イスラームを受け入れたジャワ北岸の港町が力を伸ばし、マラッカなどと結んで交易の主役になった。16世紀の初めまでに、マジャパヒトはイスラームの港市国家デマクなどに取って代わられ、姿を消した。滅亡の年には諸説ある。王国の貴族や僧の一部はバリ島へ逃れたと伝えられ、バリにいまもヒンドゥーの文化が色濃く残るのは、そのためだとも言われる。

20世紀、オランダの植民地支配からの独立を目指した人々は、マジャパヒトを自分たちの国の源流として掲げた。かつて群島を一つにまとめた大国があったのだから、自分たちも一つの国になれる、という主張である。1945年に独立を宣言したスカルノらは(インドネシア独立宣言)、『スタソマ』の言葉を国の標語に採り、国章のガルーダの足が掴む帯に書き込んだ。インドネシアの古い大学にはガジャ・マダの名が付けられ、国の通信衛星は「パラパ」と名付けられた。

インドネシア独立宣言に関わる図版:Indonesia declaration of independence 17 August 1945
インドネシア独立宣言Wikimedia Commons Frans Mendur (also Frans Mendoer) (1913 – 1971) · Public domain

一万を超える島々に、何百もの民族と言葉が暮らすインドネシアにとって、一つの国である根拠を歴史の中に探すことは切実な課題だった。マジャパヒトの実際の支配の範囲がどうであれ、その記憶は、多民族の群島を一つの国としてまとめる物語の芯になっている。

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