人物

コルベール

Jean-Baptiste Colbert
AD1619年8月29日 – AD1683年9月6日(享年64)
フランス王国重要度 4

概要

ランスの織物商の子。マザランの家令。マザランが死ぬとき、ルイ14世に「私の全部より、コルベールを」。財務総監。22年。財政の立て直し、王立マニュファクチュール(ゴブラン、鏡)、保護関税、東インド会社(1664年)、海軍(20隻から250隻)、運河(ミディ運河)、科学アカデミー、ヴェルサイユの費用と戦った。「税は、鵞鳥の羽を、鳴かせずに、最も多く抜く技術」。重商主義。ルイに「もう嫌だ」と言って死んだ。

所属

フランス王国

関わったできごと(2)

ヴェルサイユ宮殿への移座AD1682年 · 費用と戦った鏡の間とサン=ゴバンAD1684年 · 引き抜いた

本文

ジャン=バティスト・コルベールは1619年8月29日、シャンパーニュ地方のランスで、羅紗を商う商人の家に生まれた。祖父の代からの商家で、父ニコラは織物の商いに金融も手がけていた。イエズス会の学校で学んだのち、パリで銀行家や公証人のもとで働き、1640年ごろ、陸軍の役所の書記になった。陸軍卿ル・テリエの側で働いた経験が、彼を国家の金と帳簿の世界に引き込んだ。

ジャン=バティスト・コルベール
ジャン=バティスト・コルベールWikimedia Commons Claude Lefèbvre · Public domain

1651年、コルベールは宰相マザランの家産の管理人になった。フロンドの乱でマザランが国外に退いていたあいだ、パリに残って主人の財産を守り、むしろ増やした。几帳面で、休まず働き、数字に強く、愛想は無い。同時代の人々は彼を、冷たく近寄りがたい人物として描いている。マザランは1661年3月に死ぬ前、若いルイ14世にコルベールを推した。自分の持つすべてよりもコルベールを残すことで王への恩を返す、という趣旨の言葉を遺したと伝えられる。

王が親政を始めて最初の大事件は、財務卿ニコラ・フーケの失脚だった。フーケはマザランのもとで国の資金繰りを握り、自分の財産も膨らませていた。1661年8月、彼は完成したばかりのヴォー・ル・ヴィコントの城に王を招いて豪勢な祝宴を開いたが、その華やかさが王の怒りに火をつけたとされる。9月5日、ナントで、フーケは銃士隊のダルタニャンに逮捕された。証拠を集めて裁判を動かしたのはコルベールだった。3年に及んだ裁判の判決は国外追放だったが、王はこれを終身の禁固に重くし、フーケはアルプスのピニュロルの要塞で、19年後に死ぬまで閉じ込められた。

1666年のコルベールの肖像
1666年のコルベールの肖像Wikimedia Commons Philippe de Champaigne · Public domain

コルベールは財務会議の一員として実権を握り、1665年に財務総監となった。のちに王室建造物の監督官、海軍卿も兼ね、宮廷と軍以外の国政のほとんどを一人で抱えた。最初に手をつけたのは財政の立て直しである。当時、税は徴税請負人を通して集められ、その途中で多くが抜き取られて、王の手元に届くのは集めた額の半分にも満たないとされた。コルベールは請負の契約を見直し、不正な利得を吐き出させる特別の法廷を設け、借金の利払いを減らした。貧しい農民にかかる直接税タイユを軽くし、塩税など消費にかかる税を重くした。王が持ち歩ける小さな帳簿に、毎年の収入と支出をまとめて示したことも知られる。税とは、鵞鳥が鳴かないように羽をできるだけ多く抜く技術だ、という言葉は彼のものとして広く知られるが、確かな出典は見つかっていない。

彼の経済の考え方は、のちに「コルベール主義」と呼ばれる。国の富は金銀の量で決まり、金銀は貿易で入ってくる。だから輸入を減らし、輸出を増やし、これまで買っていた品は国内で作る。ゴブラン織の工房は王立の家具・調度の製作所になり、鏡はヴェネツィアの職人を引き抜いて王立の工場で作らせた。毛織物や絹の工場を後押しし、品物の長さや幅、糸の数まで定めた細かな規則で質をそろえようとした。1664年と1667年には関税を引き上げて、とりわけオランダの商品を締め出そうとした。海運と商業で栄えるオランダの黄金時代のオランダこそが、彼の念頭にある競争相手だった。この関税の争いは、1672年に始まるオランダとの戦争の原因の一つになった。

オランダの黄金時代に関わる図版:Joannes van Deutecum - Leo Belgicus 1650 - published by Claes Jansz Visscher Amsterdam
オランダの黄金時代Wikimedia Commons Claes Janszoon Visscher II / Joannes van Doetecum I · Public domain

海の向こうにも手を伸ばした。1664年にフランス東インド会社と西インド会社を作り、オランダ東インド会社の設立以来アジアの交易を握るオランダに挑んだ。カナダの植民地には、結婚相手として「王の娘たち」と呼ばれる若い女性たちを送り、人口を増やそうとした。海軍は、彼が手をつけたころには戦える艦が数十隻にすぎなかったが、晩年には200隻を超える規模になったとされる。ブレストやロシュフォールの軍港を整え、沿岸の船乗りを登録して交代で軍艦に乗せる制度を作った。地中海と大西洋を結ぶミディ運河の工事(1666〜1681年)も、彼が後押しした事業だった。

学問と芸術も「王の栄光」のために組織した。1663年の碑文アカデミー、1666年の科学アカデミーとローマのフランス・アカデミー、1667年のパリ天文台、のちには建築アカデミーができた。リシュリューのアカデミー・フランセーズの創設には彼自身も迎えられている。内外の学者に年金を払い、オランダの学者ホイヘンスやイタリアの天文学者カッシーニをパリに招いた。ルーヴル宮の東の正面では、ローマから呼んだ彫刻家ベルニーニの案を退け、フランス人による列柱の案を採らせた。

アントワーヌ・クワズヴォックス作、コルベールの胸像(ルーヴル美術館)
アントワーヌ・クワズヴォックス作、コルベールの胸像(ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Shonagon · CC0

だが、彼の思うようにならないこともあった。王は、ルーヴルではなく、郊外のヴェルサイユに巨大な宮殿を築くことに熱中した。コルベールは1663年ごろ、王の偉大さを示すのはルーヴルであって、ヴェルサイユは楽しみの館にすぎないと王に書き送ったと伝えられるが、王は聞かなかった(ヴェルサイユ宮殿への移座)。そのうえ、陸軍卿ル・テリエの子ルーヴォワが王の戦争を後押しし、オランダとの戦争(1672〜1678年)の出費とヴェルサイユの工事費が、彼が立て直した財政を再び赤字に戻していった。晩年のコルベールは、王の出費を諫める役回りになり、王の信頼もルーヴォワに傾いていった。

1683年9月6日、コルベールはパリで死んだ。64歳だった。腎臓の結石に苦しんだ末の死である。重い税を恨む民衆が騒ぐのを恐れて、遺体は夜、護衛をつけてサン・トゥスタッシュ教会に運ばれた。死後、息子のセニュレーが海軍卿を継ぎ、弟のクロワシー、その子トルシーが外務卿を務めて、コルベールの一族は長くフランスの行政を担った。植民地の奴隷の扱いを定めた1685年の「黒人法典」は、彼が準備を始め、死後に公布されたものである。

コルベールの政策は、国家が経済を細かく指導し、保護し、規制する重商主義の典型として語られる。彼の作った工場や港や運河、アカデミーの多くは、のちのフランスの土台になった。一方で、18世紀の経済学者たちは、細かすぎる規制と保護が商工業の自由な伸びを妨げたと批判し、そこから「なすに任せよ」という考えが育っていった。国が産業を育てるという発想は、いまもフランスでは「コルベール主義」の名で呼ばれ続けている。

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