概要
ランスの織物商の子。マザランの家令。マザランが死ぬとき、ルイ14世に「私の全部より、コルベールを」。財務総監。22年。財政の立て直し、王立マニュファクチュール(ゴブラン、鏡)、保護関税、東インド会社(1664年)、海軍(20隻から250隻)、運河(ミディ運河)、科学アカデミー、ヴェルサイユの費用と戦った。「税は、鵞鳥の羽を、鳴かせずに、最も多く抜く技術」。重商主義。ルイに「もう嫌だ」と言って死んだ。
所属
フランス王国関わったできごと(1)
ヴェルサイユ宮殿への移座AD1682年 · 費用と戦った本文
1619年8月29日、ランス。織物商の家(祖父は生地を、父ニコラは織物と金融)。イエズス会の学校。パリで銀行家と公証人の下で働き、1640年、陸軍省の書記。ル・テリエ(陸軍卿)の側。1651年、マザランの家の管理人(マザランがブリュールに追放されていた間、パリで彼の財産を守り、増やした)。マザランは彼を信じた。
1661年3月、マザランが死んで、王に。9月5日、ナント。ルイ14世は財務総監フーケ(マザランの下でフランスを金で動かした人。ヴォー・ル・ヴィコント城で王を招いて、金を見せすぎた)を、ダルタニャンに逮捕させた。コルベールが証拠を集め、裁判を動かした。追放の判決を、王は終身監禁に変えた(ピニェロル、19年)。コルベールは財務総監(1665年)。
「コルベルティスム」。国の富は金銀の量で、金銀は貿易で入る。輸入を減らし、輸出を増やす。国内で作る。王立マニュファクチュール(ゴブラン織、サヴォヌリー絨毯、サン・ゴバンの鏡(ヴェネツィアの職人を引き抜いて)、ヴァン・ロベーのアブヴィルの毛織物、リヨンの絹)。品質の規則(1669年の織物の規則。長さ、幅、糸の数。違反は晒し台)。保護関税(1664年、1667年。オランダを狙った。1672年の戦争の一因)。道路、運河(ミディ運河、1666〜81年。リケが作った。地中海と大西洋)。東インド会社(1664年)、西インド会社、北方会社、レヴァント会社。海軍(1661年、軍艦20隻。1683年、250隻。トゥーロン、ブレスト、ロシュフォール。徴募制度(アンスクリプシオン・マリティム)。ガレー船に囚人)。1669年、海軍卿。植民地(カナダに「王の娘たち」を送って人口を増やした。1685年の「黒人法典」は彼の死後、息子の時代)。
財政。1661年、収入3100万リーヴル、そのうち王に届くのは半分以下。徴税請負人と官職の穴。コルベールは請負契約を見直し、負債を減らし、タイユを下げて(貧しい農民の直接税)、間接税を上げた。1661年から1671年、収入は倍に。「税は、鵞鳥の羽を、鳴かせずに、最も多く抜く技術」(彼の言葉、と伝える)。「大蔵省帳簿」(王が持ち歩く小さな金の帳簿。毎年、収入と支出を王に見せた)。
学問。科学アカデミー(1666年)、天文台(1667年)、ローマのフランス・アカデミー(1666年)、碑文アカデミー、建築アカデミー、音楽アカデミー(オペラ)。王立図書館の充実。「国王の栄光」のために、学者と芸術家に年金。ルーヴルの東の列柱(ペロー。ベルニーニを退けた)。
ヴェルサイユ。コルベールは反対した(「ルーヴルを完成させるべきです。ヴェルサイユは、陛下の気晴らしの家で、陛下の偉大さの記念碑にはなりません」1663年)。負けた。建設の費用を管理した。王の戦争(オランダ戦争、1672〜78年)の費用と、ヴェルサイユの費用で、財政は1670年代の終わりにまた赤字に。ルーヴォワ(陸軍卿、ル・テリエの子)との争い。
1683年9月6日、パリ。64歳。腎臓結石。死ぬ前、王からの手紙を読まず、「私がこの人のために何をしたか、彼が知っていたら」(と伝える。確かでない)。パリの民衆は税を憎んで、葬列を襲おうとして、夜、護衛つきで運ばれた。サン・トゥスタッシュ教会。
息子セニュレー(海軍卿)、弟クロワシー(外務卿)、甥トルシー(外務卿)。コルベールの家が、30年、フランスの行政を持った。