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Person / 人

ヤーコプ・フッガー

Jakob Fugger
AD1459年3月6日 – AD1525年12月30日(享年66)
アウクスブルク重要度 5

概要

織物商の10番目の子。ヴェネツィアで簿記と為替を学んだ。ティロルの銀とハンガリーの銅を、大公と王への貸付の担保として押さえた。教皇の贖宥状の送金も扱った(ルターが怒った理由の一つ)。財産は当時のヨーロッパのGDPの2%と推定される。貧しい市民のためのフッゲライ(1521年)は、いまも家賃が年0.88ユーロで人が住んでいる。

関わったできごと(1)

フッガーの選挙資金AD1519年 · 貸した

本文

1459年3月6日、アウクスブルク。ヤーコプ・フッガー(「豊かなヤーコプ」)。父ヤーコプ(老)は、シュヴァーベンの村から出てきて、アウクスブルクで機織りと織物商になった家の2代目。母レギナ。11人の子の10番目、男では7番目。

聖職者になるはずだった。14歳で聖職禄をもらっていた。兄たちが死んで、商売へ。ヴェネツィアのドイツ商館(フォンダコ・デイ・テデスキ)で修行した。複式簿記、為替、そして「金は貸すものだ」ということを学んだ。

1487年、転機。ティロル大公ジークムント(浪費家)に、23万グルデンを貸した。担保は、シュヴァーツの銀山の産出。銀を市場価格より安く受け取る権利。ティロルは当時、ヨーロッパ最大の銀の産地。1490年、ジークムントが退位して、マクシミリアン(後の皇帝)が継いだ。フッガーは、そのまま貸し続けた。

1494年、ハンガリーのトゥルゾー家と組んで、スロヴァキアの銅山(ノイゾール)。「フッガー=トゥルゾー会社」。銅を、ヴェネツィアとアントウェルペンで売った(大砲と、船の底の板の釘に要る)。ヨーロッパの銅の生産の大半を握った。

1505年、ポルトガル王のインド航海に出資(香料)。1511年、教皇ユリウス2世に、スイス衛兵の給料を融資。教皇庁の送金の取り扱い(各国で集めた金を、為替でローマへ)。1514年、マインツ大司教アルブレヒトが、司教座を買うために教皇に払う金(2万9000グルデン)を貸した。返済のために、アルブレヒトが領内で贖宥状を売り、その半分がフッガーの代理人の手に渡った。テッツェルの説教に、フッガーの帳簿係が同行した。1517年、ルターの95か条。第27条「金貨が箱の中でチャリンと鳴るや否や、魂は煉獄から飛び去る、と説く者がいる」。

1519年、皇帝選挙。85万グルデンのうち54万3000を出した。

1523年、カール5世への手紙。「陛下が皇帝の位を得られたのは、私なしにはあり得なかった」。

財産。1511年に19万6000グルデン、1527年(死の2年後の決算)に約200万グルデン。当時の推計で、ヨーロッパの年間の総生産の約2%。トマス・ジェファーソン以来の富豪の順位で、常に上位に置かれる。

1521年、フッゲライ。アウクスブルクの一角に、52棟106戸の集合住宅。「アウクスブルクの、貧しいが働いている、罪のないカトリックの市民」のために。家賃は年1ライン・グルデン(当時の週給ほど)と、日に3回、フッガー家のために祈ること(主の祈り、アヴェ・マリア、信仰宣言)。1944年の空襲で壊れ、再建された。いま、家賃は年0.88ユーロ。150人が住んでいる。条件は500年、変わっていない(祈りも含めて)。モーツァルトの曾祖父が住んでいた。

1525年12月30日、死んだ。66歳。子はなく、甥のアントンが継いだ。「私は、生きているうちに利益を得ることを望む」と墓碑に書かせた。

ドイツ農民戦争(1525年)の農民は、「フッガー」を敵の名として叫んだ。ルターは「そのような会社を、どうやって止められるのか」と書いた。教会法は利子を禁じていた。フッガーは、インゴルシュタットの神学者エックに金を出して、「年5%までの利子は罪ではない」という論を書かせた(1515年、ボローニャで公開討論)。