ヤーコプ・フッガー
概要
織物商の10番目の子。ヴェネツィアで簿記と為替を学んだ。ティロルの銀とハンガリーの銅を、大公と王への貸付の担保として押さえた。教皇の贖宥状の送金も扱った(ルターが怒った理由の一つ)。財産は当時のヨーロッパのGDPの2%と推定される。貧しい市民のためのフッゲライ(1521年)は、いまも家賃が年0.88ユーロで人が住んでいる。
関わったできごと(1)
フッガーの選挙資金AD1519年 · 貸した本文
ヤーコプ・フッガーは、1459年3月6日、南ドイツの帝国都市アウクスブルクに生まれた。のちに「富豪ヤーコプ」と呼ばれる人である。祖父ハンスは14世紀の末に近くの村から町へ出てきた機織りの職人で、父の代には麻と綿を織り交ぜた布の商いで町の有力な商人になっていた。ヤーコプは11人きょうだいの10番目で、家業は兄たちが継ぐものとされ、彼は聖職者になる道を歩み始めていた。

だが兄たちが次々に世を去り、10代の終わりに彼は商売に呼び戻された。修業の場はヴェネツィアだった。リアルト橋のたもとのドイツ商人の商館で、彼はイタリアの商人から複式簿記と為替手形の扱いを学んだ。商品を運んで売るよりも、金を貸し、その見返りに確かな権利を押さえるほうが大きな儲けになる。彼が身につけたのは、のちに銀行と呼ばれる仕事の仕組みだった。イタリアの各地に支店を持つフィレンツェのメディチ銀行は、その先達だった。
転機は1480年代の後半に来た。アルプスのティロルを治める大公ジークムントは浪費家で、いつも金に困っていた。ティロルのシュヴァーツには、当時ヨーロッパ有数の銀山があった。フッガーは大公に金を貸し、その担保として、鉱山から出る銀を決まった安い値で引き取る権利を手に入れた。1490年、ジークムントが退位して、ハプスブルク家のマクシミリアン、のちの神聖ローマ皇帝が跡を継ぐと、フッガーは今度はマクシミリアンに貸し続けた。皇帝の戦争と宮廷の費用は、こうしてアウクスブルクの商人の金で賄われるようになった。
1494年には、ハンガリーの技術者の一族トゥルゾー家と組んで、いまのスロヴァキアのノイゾール(バンスカー・ビストリツァ)の銅山の経営に乗り出した。銅は大砲の鋳造にも、真鍮の器にも、船の補強にも欠かせない。フッガーはヴェネツィアとアントウェルペンの市場で銅を売りさばき、ヨーロッパの銅の流れを大きく握った。1505年には、ヴァスコ・ダ・ガマの航海で開かれたインド航路のポルトガルの船団にも出資し、香辛料の取引に加わった。
ローマの教皇庁も、彼の大きな顧客だった。各地の教会から集まる金をローマに送る為替を扱い、教皇のスイス衛兵の給料を立て替えたこともある。1514年、若いブランデンブルク家のアルブレヒトが、すでに持っていた司教の地位に加えて、マインツ大司教の座を手に入れようとした。そのために教皇に払う多額の金を、フッガーが貸した。返済のため、教皇はアルブレヒトの領地で贖宥状(免罪符)を売ることを許し、売上の半分が借金の返済にあてられた。説教師テッツェルが贖宥状を売り歩いたとき、売上の箱の鍵の一つはフッガーの代理人が握っていたとされる。1517年、修道士マルティン・ルターが書いた95か条の論題には、金貨が箱の中でちゃりんと鳴るやいなや魂は煉獄から飛び出す、と説く者たちへの批判が含まれていた(95か条の論題)。

教会は長く、利子を取ることを罪としていた。フッガーは神学者ヨハン・エックを支援し、1515年、ボローニャ大学で、年5パーセントほどの利子のつく取引は罪ではない、と論じる公開討論をさせた。エックはのちに、ルターの最も手強い論敵になる。
1519年、皇帝マクシミリアンが死んだ。後継を選ぶ選挙では、孫のカールとフランス王フランソワ1世が争い、両陣営が7人の選帝侯を金で買収しようとした。カールの陣営が使った85万グルデンほどのうち、半分以上をフッガーが用立てた(フッガーの選挙資金)。カールは皇帝カール5世となった。返済が滞ると、1523年、フッガーは皇帝に宛てて、陛下が皇帝の冠を得られたのは私の力なしにはありえなかったことは周知のとおりです、と率直な督促の手紙を書いた。一介の商人が皇帝に向けたものとしては、異例の言葉だった。
晩年の彼の財産は、200万グルデンを超えていたとされる。当時の物価や経済の規模をもとにした推計では、歴史上最も裕福な人物の一人に数えられる。彼は皇帝から貴族、さらに伯爵の位を授けられた。
金を儲けることについて、彼に迷いはなかった。もう十分稼いだのだから引退して楽しんではどうか、と勧められたとき、自分は生きている限り稼げるだけ稼ぎたい、と答えたという言葉が伝わっている。一方で、彼は町の聖アンナ教会に一族のための壮麗な礼拝堂を建て、貧しい人々のための施しにも力を注いだ。

その代表が、1516年に建設が始まり、1521年に寄進状が作られた貧しい市民のための集合住宅「フッゲライ」である。対象は、借金のせいではなく、まじめに働きながら貧しいアウクスブルクのカトリックの市民だった。家賃は年に1ライン・グルデンで、ほかに毎日3度、寄進者フッガー家のために祈ることが求められた。モーツァルトの曾祖父も、ここに住んでいたことがある。建物は第二次世界大戦の空襲で大きく壊れたが再建され、いまも家賃は年0.88ユーロ、祈りの条件もそのままに、150人ほどが暮らしている。世界で最も古い社会住宅の一つとされる。
彼の富は、怒りの的にもなった。ルターは商人の独占と高利を激しく批判し、1525年に南ドイツ一帯で農民戦争が起きると、反乱の農民たちはフッガーの名を憎むべき金持ちの代名詞のように叫んだ。フッガーは、反乱を鎮圧する諸侯の同盟に金を出した。

1525年12月30日、アウクスブルクで死んだ。66歳だった。子はなく、事業は甥のアントンが継いだ。フッガー家はその後もハプスブルク家に貸し続けたが、スペイン王家のたび重なる支払い停止で、やがて財産を大きく減らしていった。王や皇帝や教皇を顧客に、国家の財布を握った商人の時代を、彼は最も鮮やかに体現した人物だった。