チューリップ・バブル

概要
球根一つが家一軒の値になり、数か月で崩れた。記録に残る最初の投機バブルとして引き合いに出される。
場所
52.37°N 4.90°E · オランダ
本文
チューリップは、もとは中央アジアから西アジアの山地に自生する花で、オスマン帝国の宮廷で愛され、庭園や陶器、織物の模様に盛んに描かれていた(オスマン帝国)。16世紀の半ばに、オスマン帝国を訪れたヨーロッパの外交官や学者を通じて球根が西へ伝わった。1593年、植物学者クルシウスがオランダのライデン大学の植物園に招かれ、持参したチューリップを植えたことが、オランダでの栽培の始まりとされる。
17世紀のオランダは、スペインからの独立を求める戦いを続けながら、海運と貿易で世界一の富を手にしつつあった(オランダの黄金時代)。東インド会社(オランダ東インド会社の設立)の船がアジアの香辛料を運び込み、アムステルダムには株を売買する取引所ができていた(アムステルダム取引所)。豊かになった商人たちは、屋敷と庭を飾ることに金を惜しまなかった。珍しいチューリップは、教養と富を示す格好の品になった。

なかでも人気を集めたのが、花びらに炎のような縞や斑が入る品種だった。白や黄色の地に、赤や紫の筋が細く走る。同じ形の花は二度と咲かず、この模様を持つ球根は増えにくかった。のちに分かったことだが、この縞はアブラムシが運ぶウイルスに感染して起きるもので、球根を弱らせていた。当時は誰もその理由を知らず、気まぐれに現れる美しさが、いっそう値を押し上げた。最も名高い「センペル・アウグストゥス(永遠の皇帝)」は、白地に深紅の炎が走る花で、持ち主がほとんど手放さなかったため、伝説的な値がついた。
1630年代になると、チューリップの取引には、花の愛好家ではない人々も加わるようになる。職人や小商人が、ハールレムなどの町の居酒屋に集まり、仲間内で球根の売り買いをした。売り買いされたのは、目の前にある球根ではない。チューリップの球根は、夏の初めに掘り上げたときにしか受け渡しができない。冬のあいだは土の中にある。そこで人々は、来年の夏に掘り上げる球根を受け取る権利を、手付けだけで、あるいは紙の約束だけで売り買いした。手元に球根も無く、支払う金も無いまま、値上がりを見込んで買い、さらに高く売る。この取引は「風の取引」とも呼ばれた。

1636年の秋から冬にかけて、値段はめまぐるしく上がった。それまで見向きもされなかったありふれた品種まで、数週間で何倍にもなった。1637年2月の初め、北部の町アルクマールで、亡くなった栽培家の遺児のために球根を競りにかけたところ、合わせて9万ギルダーにのぼる値がついた。当時の職人の年収が数百ギルダーほどの時代である。高い品種の球根一つが、運河沿いの立派な家一軒に匹敵する値で取引された記録も残っている。
ところが、ちょうどこのころ、ハールレムの居酒屋で開かれたいつもの競りで、突然買い手がつかなくなった。理由ははっきりしない。その知らせは数日のうちにオランダ中に広がり、値段は一気に崩れた。高値で買う約束をしていた人々は、代金を払うのを拒んだ。売り手は約束の履行を求めたが、裁判所は、これは賭けごとのようなものだとして、多くは取り合わなかった。翌年、ハールレムの市は、約束した代金のわずかな割合を払えば契約を解消できるという取り決めを認めた。

この出来事は、のちに「チューリップ狂」として語り継がれた。広めたのは、1841年にイギリスのチャールズ・マッケイが書いた、群衆の熱狂と妄想を集めた本である。そこでは、球根一つに家や馬車、何頭もの牛と山ほどの穀物が差し出された、財産を失った人々が身を投げた、オランダの経済が傾いた、と劇的に描かれた。しかし近年の歴史家の研究では、これらの話の多くは、当時の道徳家が出した教訓の小冊子を下敷きにした誇張だとされる。取引に加わったのは限られた人々で、破産が相次いだ記録も、オランダの経済が打撃を受けた形跡もほとんど見つかっていない。ちょうどそのころハールレムで流行していたペストが人々を投げやりにさせた、という見方もある。
それでも、チューリップ・バブルは、投機の熱狂の典型として、いまも繰り返し引き合いに出される。実際の価値から離れた値段、手元に無い物を売り買いできる仕組み、そして、もっと高く買ってくれる人が次にいるはずだという思い込み。80年ほど後には、フランスのミシシッピ会社のバブルとイギリスの南海泡沫事件が、はるかに大きな規模で同じ型をなぞることになる。チューリップの栽培そのものはその後もオランダの代表的な産業として続き、いまもオランダは世界の球根の多くを育てている。