ミシシッピ会社のバブル

概要
株価が1年で20倍になり、1年で崩れた。フランス王家は信用を失い、以後の戦費を高い利子で借りることになる。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
ジョン・ローAD1671年4月21日–AD1729年3月21日 · 仕掛けた本文
1715年にルイ14世が死んだとき、フランスの王家には、半世紀にわたる戦争と宮殿造りが残した巨額の借金があった。国の年収の何年分にもあたる債務を抱え、利払いだけで財政は回らない。幼いルイ15世に代わって国を治めた摂政のオルレアン公フィリップは、打つ手を探していた。そこへ現れたのが、スコットランド生まれのジョン・ローである。
ローはエディンバラの金細工師で銀行家の家に生まれ、若いころロンドンで決闘の末に相手を殺し、死刑の判決を受けて大陸へ逃れた。その後、各地の賭博場で稼ぎながら、貨幣と信用についての独自の考えを練り上げた。金や銀が足りないから経済が動かない。土地や事業の価値を裏づけにした紙幣を出せば、商売は活発になり、国も豊かになる。各国の宮廷に売り込んで断られ続けたこの考えを、借金に苦しむフランスの摂政が取り上げた。

1716年、ローはパリに銀行を開き、紙幣を出した。紙幣は税の支払いに使えることになり、信用を得た。銀行は1718年に王立銀行になる。翌年にかけてローは、北米のルイジアナ植民地との交易の独占権を持つ会社を手に入れ、東インドや中国との交易の会社を次々に合わせて、巨大な「インド会社」にまとめた。人々はこれをミシシッピ会社と呼んだ。ミシシッピ川の河口にニューオーリンズの町が作られたのも、この会社の事業の一つである。
仕組みの要は、会社が国の借金を引き受けることにあった。国債を持つ人は、それを会社の株に換えることができる。国は利払いの重荷から逃れ、会社は植民地の富と国への貸し付けから利益を上げる。株を買うための紙幣は王立銀行がいくらでも刷った。ルイジアナには金も銀もあふれている、という宣伝が広まり、株価は上がり続けた。1株500リーヴルで出された株は、1719年の暮れには1万リーヴル近くまで上がった。パリのカンカンポワ通りには株を買い求める人々が押し寄せ、召使いが主人より金持ちになったという話が飛び交った。「百万長者(ミリオネール)」という言葉は、この騒ぎのなかで広まったとされる。1720年のはじめ、ローは財務総監に任じられ、フランスの財政を一手に握った。

だが、ルイジアナは宣伝のような土地ではなかった。湿地と森が広がり、送り込まれた入植者は病に倒れ、金も銀も見つからなかった。利益が出ないことに気づいた人々は、株を売って紙幣に換え、紙幣を金や銀に換えようとした。株価を支えるために銀行がさらに紙幣を刷ると、物価が跳ね上がった。ローは金銀での支払いを制限し、金貨を持つことまで禁じたが、不安は止まらない。1720年5月、株と紙幣の値を段階的に下げるという布告が出ると、信用は一気に崩れた。夏には銀行に人々が殺到し、押し合いで死者が出た。
1720年の暮れ、ローは身の危険を感じてフランスを去った。財産のほとんどを失い、1729年にヴェネツィアで貧しく死んだ。同じ1720年、ロンドンでも同じように国債を株に換える仕組みを持った会社の株が暴落している(南海泡沫事件)。
フランスに残った傷は深かった。紙幣と銀行という言葉そのものが疑いの対象になり、フランスではその後長く、中央銀行を作ることができなかった。王家は信用を失い、以後の戦争の費用を高い利子で借りるしかなくなる。七年戦争やアメリカ独立戦争への援助で借金はさらに膨らみ、増税のために1789年に三部会が開かれたことが、フランス革命の引き金になった。ミシシッピの泡は、その70年前に始まった長い道のりの最初の一歩だったともいえる。

ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で、この一件を、信用を裏切った国家がどう罰されるかの例として取り上げた(物語「『サピエンス全史』で読む歴史」)。ただ、ローの考えのすべてが誤っていたわけではない。金銀に縛られない紙幣で経済を動かすという発想は、のちの中央銀行と管理通貨の仕組みを先取りしていた、と評価する経済学者もいる。失敗したのは、紙幣を刷る力と、株価を吊り上げたいという誘惑を、同じ一人の手に預けたことだった。