フォードの流れ作業
概要
ハイランドパーク工場。シカゴの食肉工場の「解体の流れ」を逆にした。組み立てる物が動き、人は動かない。T型フォード1台の組み立てが12時間半から93分に。値段は850ドルから260ドルへ。1914年、日給5ドル(当時の倍)と8時間労働。「私の工場の労働者が、自分の作る車を買えるように」。単純な動作の繰り返し。チャップリンが『モダン・タイムス』で笑った。
場所
42.41°N -83.10°E · アメリカ・ミシガン州
関わった人(1)
ヘンリー・フォードAD1863年7月30日–AD1947年4月7日 · 作った本文
20世紀の初め、自動車は金持ちの道楽だった。職人が一台ずつ手で組み立てる車は高く、壊れやすく、道路もろくに整っていなかった。ミシガン州の農家に生まれ、機械いじりで身を立てたヘンリー・フォードは、ふつうの人が買える車を作りたいと考えた。1908年に売り出したT型フォードは、頑丈で、修理しやすく、悪い道にも強い車として、たちまち人気になった。値段は850ドル前後。それでも、注文に生産が追いつかなかった。
当時の組み立ては、車台を床に据え、そのまわりに職人の組が部品を運んできて、一台を仕上げるやり方だった。人と部品が車のまわりを動き回る。一台の車台を組み上げるのに、12時間半ほどかかった。1910年に開いたデトロイト郊外のハイランドパークの新工場で、フォードと技師たちは、これを根本から変えようとした。

1913年4月1日、まず小さな部品で試した。点火用の発電装置であるマグネトーの組み立てである。それまでは一人の作業者が全部の部品を組み、一台を20分ほどで仕上げていた。これを、部品が台の上を滑って作業者の前を順に流れ、一人ひとりが決まった一つの作業だけをする形に変えると、一台にかかる時間は13分ほどに縮んだ。台の高さを作業しやすく変えるなど工夫を重ねると、さらに短くなった。
その夏から、流れ作業はエンジンや変速機へと広げられた。10月には車台そのものの組み立てを、綱と巻き上げ機で引いて動かす試みが始まり、一台にかかる時間は3時間足らずに縮んだ。翌1914年の初めには、動力で動く連続した流れに変わり、車台一台の組み立ては1時間半ほどになった。組み立てる物が動き、人は動かない。工場の中を、車が川のように流れていった。

この方法は、いくつもの先例を組み合わせたものだった。シカゴの食肉工場では、すでに19世紀の後半から、天井のレールに吊るした牛や豚の体を流し、決まった場所に立つ職人が順に切り分けていく「解体の流れ」が使われていた。フォードの技師たちはそれを見ていた。ばらしながら流すのを逆にして、組み立てながら流したのである。そこへ、銃や時計やミシンの製造で育った、寸法を揃えて交換のきく部品を作るアメリカの技術と、作業を細かな動作に分けて時間を測るテイラーの方法(科学的管理法)が加わった。
結果は劇的だった。T型の生産は、1913年の約20万台から、1916年には50万台を超え、1920年代の初めには年に200万台近くに達した。値段は年ごとに下がり、1920年代の半ばには300ドルを割り込んだ。1927年に生産を終えるまでに、T型はおよそ1500万台が作られた。農民が車で町へ買い物に出かけ、都会の勤め人が郊外に家を構えて車で通う。道路が舗装され、ガソリンスタンドやモーテルが現れた。アメリカの暮らしと風景そのものが、流れ作業から生まれた安い車によって作り替えられていった。

だが、工場の中の人間にとって、それは別の顔を持っていた。一日じゅう、同じ場所に立ち、同じ動作を何千回も繰り返す。速さを決めるのは自分ではなく、流れの速度である。熟練の技はいらなくなり、仕事への誇りも失われた。1913年、ハイランドパーク工場の働き手は次々に辞めていき、一年間の離職率は370%にも達したといわれる。100人の持ち場を保つために、一年で数百人を雇わなければならなかった。
1914年1月、フォードは世間を驚かせる発表をした。日給を5ドルにし、一日の労働を8時間にする。それまでの相場のほぼ倍だった。翌週、工場の門には職を求める人々が1万人以上押し寄せ、真冬の寒さの中で、群衆を散らすために放水まで行われた。フォードは、働く人が自分の作る車を買えるようでなければならない、と語った。それは半ば本心であり、半ばは離職を食い止めるための計算だった。しかも5ドルは誰にでも払われたわけではない。会社には「社会部」が置かれ、調査員が働き手の家を訪ねて、酒を飲まないか、家を清潔にしているか、貯金をしているかを調べ、合格した者だけに上乗せ分を払った。移民の働き手は、英語と「アメリカ人らしい」暮らし方を教える学校に通わされた。1926年には、週5日・40時間の労働も導入している(週五日、四十時間)。

一方でフォードは、労働組合を長く頑なに拒んだ。会社の警備部門は組合の活動家に暴力をふるい、1937年には、工場の前の歩道橋でビラを配ろうとした自動車労働組合の幹部たちが殴打される事件が起きた。1932年には、職を失った人々の行進に工場の警備と警察が発砲し、死者が出ている。フォードが組合を認めたのは、1941年のことである。
流れ作業の工場は、時代を映す鏡にもなった。チャップリンの映画『モダン・タイムス』(1936年)では、ベルトの上を流れてくる部品のボルトを締め続けた工員が、手の痙攣が止まらなくなり、ついには機械の歯車の中に吸い込まれる。オルダス・ハクスリーの小説『すばらしい新世界』(1932年)では、人々は「フォード紀元」で年を数え、神の代わりに「わがフォード」と唱える。イタリアの思想家グラムシは獄中で、大量生産と高い賃金と大量消費が結びついたこの仕組みをフォーディズムと呼んだ。
大量に作り、安く売り、多くの人が買う。その仕組みは、20世紀の工業の型として世界中に広がった。日本の自動車工場も、のちにこの流れ作業を学び、そこに作業者自身が改善を重ねる工夫を加えて、独自の生産方式を作り上げていく。ハイランドパークの流れは、いまも形を変えて世界中の工場で動き続けている。