できごと

グレート・ジンバブエの繁栄

Great Zimbabwe
AD1300年頃
重要度 3
バントゥー系の人びと西アフリカの穀作農民コイサンマダガスカルカネム=ボルヌグレート・ジンバブエイスラムの都市国家群メリナ王国(拡大期)ベナンAD1300年頃グレート・ジンバブエ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1300年頃の版図を描いています(9勢力)。

概要

石を積んだ大規模な都市遺跡。インド洋交易で栄えた南部アフリカの王国。

場所

グレート・ジンバブエ
-20.27°N 30.93°E · ジンバブエ

本文

ジンバブエ南東部の高原に、花崗岩の丘と、その下の谷に広がる石の遺跡がある。グレート・ジンバブエと呼ばれるこの遺跡は、サハラ以南のアフリカで最大級の石造建築の跡だ。「ジンバブエ」は、この地に住むショナの言葉で「石の家」を意味する語に由来するとされる。

ここに人が住み始めたのは11世紀ごろで、13世紀から15世紀に最も栄えた。最盛期には、谷と周辺の丘に1万人から2万人近くが暮らしていたと推定されている。造ったのは、今もこの地に住むショナの人々の祖先とみられる。

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Wikimedia Commons Image taken by Jan Derk in 1997 in Zimbabwe . · Public domain

遺跡は大きく三つに分かれる。丘の上の遺跡は、巨岩の間を石垣でつないだもので、早い時期の王の住まいだったと考えられている。谷には、大囲壁(グレート・エンクロージャー)と呼ばれる楕円形の大きな囲いがある。外壁は周囲250メートルほど、高さは最大で11メートル、厚さは5メートルに達する。その周りの谷にも、小さな囲いがいくつも残る。

石の積み方に特徴がある。花崗岩を薄く割った石材を、モルタルを使わずに精密に積み上げた。高原の花崗岩は、昼の熱と夜の冷えを繰り返すうちに薄く剥がれる性質があり、それを利用して形のそろった石を得たとみられる。大囲壁の上部には、山形の模様を描くように石を積んだ部分がある。内側には高さ10メートルほどの円錐形の塔が立つが、中は詰まっていて入れない。穀物の倉を象った象徴とする説などがあるが、何のための塔かは分かっていない。

ジンバブエ共和国内の主な考古遺跡の位置図。グレート・ジンバブエ遺跡は、マシンゴ州の南緯20度17分、東経30度56分の位置にある
ジンバブエ共和国内の主な考古遺跡の位置図。グレート・ジンバブエ遺跡は、マシンゴ州の南緯20度17分、東経30度56分の位置にあるWikimedia Commons Siyajkak · Public domain

この石の壁は、敵を防ぐためのものではなかったとされる。壁に見張りの台も矢狭間もなく、囲いの中に王や有力者の住まいがあったと考えられている。高い壁は、中にいる者の力と地位を見せるためのものだったのだろう。丘の上の遺跡からは、石を彫って作った鳥の像が8体見つかっている。この「ジンバブエの鳥」は、いまジンバブエの国旗と国章に描かれている。

この王国は内陸の高原にあり、インド洋の海岸からは400キロほど離れている。それでも遺跡からは、中国の青磁、ペルシアの陶器、シリアのガラス、インド洋の貝殻のビーズが出る。東アフリカの港町キルワで造られた14世紀の銅貨も見つかった。グレート・ジンバブエは、インド洋をめぐる交易の網の、内陸側の端にあった(キルワとインド洋交易)。

グレート・ジンバブエ遺跡、「アクロポリス」をふもとから望む。Randall-MacIver1906より
グレート・ジンバブエ遺跡、「アクロポリス」をふもとから望む。Randall-MacIver1906よりWikimedia Commons Public domain

輸出したのは金と象牙だった。周辺の高原には金の鉱脈があり、川の砂からも金がとれた。王国はそれを集めて東へ送り、海岸のソファラの港から、スワヒリ海岸の商人(スワヒリ海岸の交易都市)の手でインド洋へ運ばれた。代わりに布やビーズ、陶磁器が内陸へ入った。牛の群れも富と力の源で、王国の経済を支えていた。少し前には、南のリンポポ川のほとりにマプングブエという王国が栄えており、グレート・ジンバブエはその交易の役割を受け継いだと考えられている。

15世紀になると、グレート・ジンバブエは衰える。人が増えすぎて周囲の森や牧草地、土が疲れ果てたため、あるいは金の交易の道筋が北へ移ったためと考えられているが、決め手は無い。その後、力の中心は北のムタパ王国と、西のトルワ(カミ)の王国へ移った。16世紀にポルトガル人が海岸に来たとき、彼らが耳にしたのはムタパの王の名だった。

グレート・ジンバブエ遺跡。「アクロポリス」の遠景
グレート・ジンバブエ遺跡。「アクロポリス」の遠景Wikimedia Commons Image taken by Jan Derk in 1997 in Zimbabwe . · Public domain

19世紀の後半、ヨーロッパ人が遺跡を「発見」した。1871年に訪れたドイツ人のカール・マウフは、ここを旧約聖書に出てくるシバの女王の都だと考えた。アフリカの人々がこれほどの石造建築を造れたはずがない、という前提が当時のヨーロッパにはあり、フェニキア人やアラブ人が造ったとする説が次々に唱えられた。セシル・ローズの会社がこの地を植民地にすると、遺跡の上層は宝探しの発掘で荒らされ、大事な手がかりの多くが失われた。

考古学の証拠は早くからはっきりしていた。1905年にデイヴィッド・ランドール=マッキーヴァー、1929年にガートルード・ケイトン=トンプソンが調査し、出土品から、これが中世のアフリカの人々の手になるものだと結論した。だが、白人の少数支配を続けたローデシア政府にとって、それは都合の悪い事実だった(ローデシアの一方的独立宣言)。1970年前後から、政府は案内書や博物館の展示で、アフリカ人が造ったと明記することを控えさせ、研究者に圧力をかけた。遺跡の主任を務めていた考古学者ピーター・ガーレイクは、これに抗って職を辞し、国を去った。

グレート・ジンバブエ遺跡主要石造建築物の配置図
グレート・ジンバブエ遺跡主要石造建築物の配置図Wikimedia Commons Siyajkak · Public domain

1980年、独立した国は、この遺跡の名を国の名に選んだ(ジンバブエの独立)。植民地時代に否定されてきた過去を、国の誇りの中心に据えたことになる。1986年には世界遺産に登録された。石を積んだ壁は、600年以上前に造られた都の跡であると同時に、誰の歴史を誰が語るのかをめぐる争いの記念碑にもなっている。

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