できごと

琉球王国の統一

Unification of Ryukyu
AD1429年
重要度 5
シベリアの諸集団白帳ハン国明チャガタイ汗国チベットパガン朝シュリーヴィジャヤ日本ヒンドゥーと仏教の小国群クメール帝国朝鮮王朝スコータイ朝大越アユタヤ朝大越アイヌモシリアチェチャンパAD1429年首里
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1429年の版図を描いています(18勢力)。

概要

尚巴志が北山・中山・南山の三山を統一して、首里を都にした。明に朝貢し、日本と朝鮮とシャムとマラッカとジャワを結ぶ中継貿易で栄えた。1458年の「万国津梁の鐘」の銘。「舟楫を以て万国の津梁と為し、異産至宝は十方刹に充満せり」。武器を持たない国、というのは後の話で、実際には城と軍があった。

場所

首里
26.22°N 127.72°E · 沖縄県那覇市

関わった人(1)

尚巴志AD1372年–AD1439年 · 統一した

本文

12世紀ごろから、沖縄本島では農耕が広がり、各地に按司(あじ)と呼ばれる有力者が現れた。按司たちは石灰岩の丘の上にグスクと呼ばれる石垣の城を築き、互いに争い、手を結んだ。14世紀の後半、島はおおよそ三つの勢力にまとまっていた。北部の今帰仁を拠点とする北山、中部の浦添を拠点とする中山、南部の島尻大里を拠点とする南山である。三山時代と呼ばれる。

この島々に大きな転機をもたらしたのは、海の向こうの中国だった。1368年に明を建てた洪武帝(朱元璋(洪武帝))は、民間の海外交易を禁じる一方、周りの国々に使者を送り、皇帝に朝貢するよう呼びかけた。1372年、中山の王察度がこれに応え、弟を使者として明に送った。北山と南山もまもなく後に続いた。明は朝貢する国の王に、返礼として多くの品を与え、朝貢に伴う交易を認めた。小さな島の王たちにとって、これは大きな富の源だった。明は琉球に航海用の船を与え、のちに福建から渡来した人々が那覇の久米村に住みついて、通訳や航海、外交文書の作成を担った。「閩人三十六姓」と呼ばれる人々である。

首里城から海を望む
首里城から海を望むWikimedia Commons Public domain

その中から現れたのが尚巴志である。本島南部の佐敷の小さな按司、思紹の子として1372年に生まれた。体が小さかったことから「佐敷小按司」と呼ばれたと伝えられる。若いころの逸話として、刀を作らせたところ、それを欲しがった外国船の商人と、船に積んでいた鉄を取り換え、その鉄で農具を作って農民に配り、人々の心をつかんだという話が残っている。のちの王府が編んだ歴史書の伝える話で、どこまで事実かは分からないが、鉄が貴重で、それを握る者が人を集めたことはうかがえる。

尚巴志は佐敷から勢力を広げ、1406年、中山の王武寧を倒して、父の思紹を中山王に立てた。都はこの頃、浦添から首里へ移されたとされる。首里は那覇の港を見下ろす丘で、交易を押さえるには都合のよい場所だった。1416年(1422年とする説もある)、尚巴志は北山の今帰仁グスクを攻め落とした。北山王の攀安知は、家臣の裏切りで城を失い、守り神として祀っていた霊石を刀で斬りつけてから自害したと伝えられる。1421年ごろ父が死に、尚巴志が中山の王位を継いだ。明の皇帝から「尚」の姓を与えられたと、のちの歴史書は記している。1429年、南山の王他魯毎を滅ぼし、三山は一つになった。これを第一尚氏の王統と呼ぶ。

首里城正殿
首里城正殿Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

統一された琉球王国は、明との朝貢を軸に、東アジアと東南アジアを結ぶ中継の交易で栄えた。明は自国の商人が海に出ることを禁じていたため、朝貢国として明と公式に取引できる琉球は、ほかの国々の間に立つ仲介者になれた。琉球の船は、中国の陶磁器や絹織物を、日本、朝鮮、シャムのアユタヤ朝、マラッカ(マラッカ王国の成立)、ジャワ、スマトラへ運び、そこで手に入れた胡椒や香木、染料になる蘇木、日本の刀剣や扇、硫黄などを中国へ持ち込んだ。鄭和の南海遠征が南の海を行き来した時代と重なる。琉球の王府が1424年から19世紀まで書き継いだ外交文書の集成『歴代宝案』には、こうした国々との往来が具体的に残っている。

その誇りを刻んだのが、1458年、尚泰久王が首里城の正殿に掛けた鐘の銘文である。琉球は南の海の恵まれた土地にあり、明と日本の間に湧き出た理想の島である、船をもって万国の架け橋となり、異国の産物と宝が国中に満ちている、という趣旨の言葉が刻まれている。この鐘は「万国津梁の鐘」と呼ばれ、いまも琉球の交易の時代を象徴する言葉として知られている。

第一尚氏の王統は長く続かなかった。王位をめぐる争いや有力者の反乱が相次ぎ、1469年ごろ、重臣の金丸が王位に就いた。尚円王である。こうして第二尚氏の王統が始まり、1879年の琉球処分まで続く。その最盛期を築いたのが、1477年に即位して50年近く王位にあった尚真王である。尚真は各地の按司を首里に集めて住まわせ、地方の支配を王府の役人に担わせた。位階と冠の色で身分を分け、神女の組織を王府の下に整えた。八重山や久米島にも兵を送って王府の支配を広げた。

尚真王の時代を記した碑文には、刀や弓矢を集めて蔵に収めた、という意味の一節がある。江戸時代の後半以後、これは武器を捨てた平和な国のしるしとして語られ、19世紀に琉球に寄ったイギリス人の旅行記なども、武器を持たない民の島という像を広めた。しかし実際には、碑文は武器を国の備えとして蓄えたという意味に読むのが自然とされ、王国は城と兵を持ち、離島へ遠征し、1609年には薩摩の軍と戦っている。「武器のない国」は、後世に作られた像の面が強い。

16世紀に入ると、琉球の交易は細っていった。明の海禁が緩んで中国の商人が自ら海へ出るようになり、ポルトガルの船がマラッカを押さえて南の海に入り込み、日本の商人も東南アジアへ直接向かうようになった。仲介者の出番は減った。そして1609年、薩摩の島津氏の軍が首里を占領する(薩摩の琉球侵攻)。王国はその後も続いたが、明と日本の間で揺れる新しい時代に入った。首里城は何度も焼けては建て直され、2019年の火災で正殿などを失い、いま再建が進められている。

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