できごと

サハラへのラクダの導入

Camels reach the Sahara
3世紀
年に諸説あり重要度 4
コイサンローマ西アフリカの穀作農民サバンナの狩猟採集民ササン朝ペルシアアマゾンの狩猟採集民メロエヒムヤル王国アクスム王国ブレンミュエス3世紀トンブクトゥ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている3世紀の版図を描いています(10勢力)。

概要

これで砂漠が「越えられるもの」になった。地中海と西アフリカが金と塩でつながる。

場所

トンブクトゥ
16.77°N -3.01°E · マリ

本文

サハラは、地中海沿岸の北アフリカと、その南の西アフリカのあいだに横たわる。幅は南北に1500キロを超え、その大部分に、水の得られない砂と岩の土地が続く。かつては緑の草原だった時代もあったが(緑のサハラ)、乾燥が進んでからは、人と物の行き来を阻む壁となった。

ラクダが来る前にも、サハラを越える道が無かったわけではない。いまのリビア南部のフェザーン地方に栄えたガラマンテスと呼ばれる人々は、オアシスに地下の水路を掘って農業を営み、馬や牛を使って砂漠の交易に関わっていた。岩絵には、馬に引かせた二輪の戦車も描かれている。だが、馬も牛も、水無しでは何日も歩けない。オアシスとオアシスのあいだが離れていれば、越えられない。運べる量も限られていた。

1853年のキャラバンとトンブクトゥ
1853年のキャラバンとトンブクトゥWikimedia Commons Public domain

それを変えたのが、ヒトコブラクダである。ヒトコブラクダは、紀元前1000年前後にアラビア半島で家畜にされたとされる。エジプトを経て、北アフリカに少しずつ広がり、紀元後の数世紀、ローマ帝国の時代の後半には、北アフリカの各地で数多く飼われるようになった。紀元前46年、カエサルが北アフリカでの戦いの後に、ヌミディア王の持ち物から22頭のラクダを奪ったという記録があり、このころはまだ珍しかったことがうかがえる。4世紀には、北アフリカの都市にラクダが徴発された記録もある。

ラクダは、乾いた土地のために作られたような動物である。体の水分を体重の4分の1ほど失っても耐えられ、水場に着けば短い時間に100リットル近い水を飲める。昼の暑さの中では体温が上がるのに任せて汗を節約し、夜に体温を下げる。背中のこぶに水が入っているわけではなく、蓄えられているのは脂肪で、食べ物の乏しい旅の間の養分になる。荷はおよそ150キロから200キロを背負い、1日に30キロほどを進み、水を飲まずに1週間あまり歩き続けることができる。砂にめり込まない、幅の広い足の裏を持っている。

サハラ砂漠とサヘルの境界に位置するエネディ山地
サハラ砂漠とサヘルの境界に位置するエネディ山地Wikimedia Commons David Stanley from Nanaimo, Canada · CC BY 2.0

ラクダを使いこなしたのは、サハラの遊牧民、とくにベルベル系の人々だった。彼らは砂漠の道とオアシスを知り尽くし、隊商の道案内と護衛を担った。7世紀から8世紀にかけて、アラブの軍が北アフリカを征服してイスラームが広がると、イスラームの商人たちがこの交易の網に加わった。モロッコ南部のシジルマサのような町が、砂漠の北の玄関口として栄える。中世の大きな隊商は、千頭を超えるラクダを連ねたという。

北から南へ運ばれた大きな品は、塩だった。サハラの真ん中には、かつての湖が干上がってできた岩塩の層があり、板のように切り出すことができた。14世紀にこの道を通ったイブン・バットゥータ(イブン・バットゥータの旅)は、岩塩の産地タガーザでは家もモスクも塩の板で造られている、と書き残している。西アフリカの南の森や草原では塩がとれにくく、暑さの中で暮らす人にも家畜にも塩は欠かせない。ほかに、北からは布や銅、馬、本などが運ばれた。

イブン・バットゥータの旅に関わる図版:MS Arabe 2291 تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار (cropped)
イブン・バットゥータの旅Wikimedia Commons أبو عبد الله محمد بن جزي ابن بطوطة · Public domain

南から北へ運ばれた大きな品は、金だった。セネガル川やニジェール川の上流には豊かな金の産地があった。この金を押さえて栄えたのがガーナ王国(ガーナ王国の金と塩の交易)で、そのあとをマリ帝国(マリ帝国の成立)、ソンガイ帝国(ソンガイ帝国の最盛期)が継ぐ。1324年、マリの王マンサ・ムーサがメッカへの巡礼の途中でカイロに大量の金を持ち込み、その地の金の相場を下げた話はよく知られている(マンサ・ムーサの巡礼)。西アフリカの金は、北アフリカのイスラームの王朝の金貨となり、地中海を渡ってヨーロッパの金貨の材料にもなった。中世の地中海世界で使われた金のかなりの部分が、サハラの南から来ていたと考えられている。南から北へは、金のほかに象牙や、奴隷にされた人々も運ばれた。

塩と金が同じ重さで取り引きされた、という話がよく語られる。持っていない土地では、ありふれたものが金と同じだけの値打ちを持つ、ということを伝える話だが、実際の交換の比率は時代と場所で大きく変わり、この話には誇張が含まれている。

重要な品の1つである岩塩の板。掘り出されてキャラバンによって運ばれる
重要な品の1つである岩塩の板。掘り出されてキャラバンによって運ばれるWikimedia Commons Robin Taylor · CC BY 2.0

ラクダの隊商は、物だけでなく、宗教と学問も運んだ。西アフリカの王や商人たちはイスラームを受け入れ、ニジェール川の湾曲部にあるトンブクトゥは、交易の町であると同時に、多くの写本が集まる学問の町となった。

サハラを越える交易の重心が変わるのは、15世紀以降である。ポルトガルの船がアフリカの西岸を南へ下り、海から直接、金や人を買い付けるようになった。それでもラクダの隊商は20世紀まで続き、いまもサハラの一部では、岩塩を運ぶ隊商が細々と歩いている。

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