サハラへのラクダの導入
概要
これで砂漠が「越えられるもの」になった。地中海と西アフリカが金と塩でつながる。
場所
16.77°N -3.01°E · マリ
本文
サハラは、地中海沿岸の北アフリカと、その南の西アフリカのあいだに横たわる。幅は南北に1500キロを超え、その大部分に、水の得られない砂と岩の土地が続く。かつては緑の草原だった時代もあったが(緑のサハラ)、乾燥が進んでからは、人と物の行き来を阻む壁となった。
ラクダが来る前にも、サハラを越える道が無かったわけではない。いまのリビア南部のフェザーン地方に栄えたガラマンテスと呼ばれる人々は、オアシスに地下の水路を掘って農業を営み、馬や牛を使って砂漠の交易に関わっていた。岩絵には、馬に引かせた二輪の戦車も描かれている。だが、馬も牛も、水無しでは何日も歩けない。オアシスとオアシスのあいだが離れていれば、越えられない。運べる量も限られていた。

それを変えたのが、ヒトコブラクダである。ヒトコブラクダは、紀元前1000年前後にアラビア半島で家畜にされたとされる。エジプトを経て、北アフリカに少しずつ広がり、紀元後の数世紀、ローマ帝国の時代の後半には、北アフリカの各地で数多く飼われるようになった。紀元前46年、カエサルが北アフリカでの戦いの後に、ヌミディア王の持ち物から22頭のラクダを奪ったという記録があり、このころはまだ珍しかったことがうかがえる。4世紀には、北アフリカの都市にラクダが徴発された記録もある。
ラクダは、乾いた土地のために作られたような動物である。体の水分を体重の4分の1ほど失っても耐えられ、水場に着けば短い時間に100リットル近い水を飲める。昼の暑さの中では体温が上がるのに任せて汗を節約し、夜に体温を下げる。背中のこぶに水が入っているわけではなく、蓄えられているのは脂肪で、食べ物の乏しい旅の間の養分になる。荷はおよそ150キロから200キロを背負い、1日に30キロほどを進み、水を飲まずに1週間あまり歩き続けることができる。砂にめり込まない、幅の広い足の裏を持っている。

ラクダを使いこなしたのは、サハラの遊牧民、とくにベルベル系の人々だった。彼らは砂漠の道とオアシスを知り尽くし、隊商の道案内と護衛を担った。7世紀から8世紀にかけて、アラブの軍が北アフリカを征服してイスラームが広がると、イスラームの商人たちがこの交易の網に加わった。モロッコ南部のシジルマサのような町が、砂漠の北の玄関口として栄える。中世の大きな隊商は、千頭を超えるラクダを連ねたという。
北から南へ運ばれた大きな品は、塩だった。サハラの真ん中には、かつての湖が干上がってできた岩塩の層があり、板のように切り出すことができた。14世紀にこの道を通ったイブン・バットゥータ(イブン・バットゥータの旅)は、岩塩の産地タガーザでは家もモスクも塩の板で造られている、と書き残している。西アフリカの南の森や草原では塩がとれにくく、暑さの中で暮らす人にも家畜にも塩は欠かせない。ほかに、北からは布や銅、馬、本などが運ばれた。

南から北へ運ばれた大きな品は、金だった。セネガル川やニジェール川の上流には豊かな金の産地があった。この金を押さえて栄えたのがガーナ王国(ガーナ王国の金と塩の交易)で、そのあとをマリ帝国(マリ帝国の成立)、ソンガイ帝国(ソンガイ帝国の最盛期)が継ぐ。1324年、マリの王マンサ・ムーサがメッカへの巡礼の途中でカイロに大量の金を持ち込み、その地の金の相場を下げた話はよく知られている(マンサ・ムーサの巡礼)。西アフリカの金は、北アフリカのイスラームの王朝の金貨となり、地中海を渡ってヨーロッパの金貨の材料にもなった。中世の地中海世界で使われた金のかなりの部分が、サハラの南から来ていたと考えられている。南から北へは、金のほかに象牙や、奴隷にされた人々も運ばれた。
塩と金が同じ重さで取り引きされた、という話がよく語られる。持っていない土地では、ありふれたものが金と同じだけの値打ちを持つ、ということを伝える話だが、実際の交換の比率は時代と場所で大きく変わり、この話には誇張が含まれている。

ラクダの隊商は、物だけでなく、宗教と学問も運んだ。西アフリカの王や商人たちはイスラームを受け入れ、ニジェール川の湾曲部にあるトンブクトゥは、交易の町であると同時に、多くの写本が集まる学問の町となった。
サハラを越える交易の重心が変わるのは、15世紀以降である。ポルトガルの船がアフリカの西岸を南へ下り、海から直接、金や人を買い付けるようになった。それでもラクダの隊商は20世紀まで続き、いまもサハラの一部では、岩塩を運ぶ隊商が細々と歩いている。