人物

オラウダ・イクイアーノ

Olaudah Equiano
AD1745年頃 – AD1797年3月31日(享年52・推定)
イギリス重要度 4

概要

奴隷にされ、自分で自由を買い戻し、その体験を本にした。奴隷貿易廃止運動を動かした一冊になる。

関わったできごと(1)

イクイアーノの自伝AD1789年 · 著者

本文

自伝によれば、いまのナイジェリア南東部、イボの人々の村で生まれた。父は村の長老の一人で、家は奴隷も持っていた。11歳ごろ、大人たちが畑に出ている間に、妹とともに侵入者に攫われた。妹とはすぐ引き離され、いくつもの村で売られながら海岸へ運ばれた。初めて見る白人と大きな船に、自分は食べられるのだと思った、と書いている。

この少年時代の記述には、20世紀の終わりから疑問が出ている。研究者ヴィンセント・カレッタが、ロンドンでの洗礼記録と海軍の乗員名簿に「サウスカロライナ生まれ」と書かれているのを見つけた。そうであれば、アフリカの村と船倉の場面は、同郷の人々から聞いた話をもとに書いた可能性がある。一方で、記録は本人の申告とは限らず、イボの習俗の描写が細部まで正確だとして自伝を支持する研究者も多い。決着はついていない。いずれにせよ、彼の書いた大西洋航路の描写は、大西洋奴隷貿易の実態を伝える証言として広く読まれてきた。

大西洋奴隷貿易に関わる図版:Slave Auction Ad
大西洋奴隷貿易Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

船は西インド諸島のバルバドスに着き、そこで売れ残った彼はヴァージニアへ送られた。農園でしばらく働いたあと、イギリス海軍の士官マイケル・パスカルに買われる。パスカルは彼に、スウェーデン王の名にちなむグスタヴス・ヴァッサという名を付けた。本人は嫌がったが、生涯この名で通すことになる。主人について艦に乗り、七年戦争の海戦を経験した。船の上で読み書きを覚え、ロンドンでは洗礼を受けた。

自由になれると信じていた。ところが1762年、パスカルは彼を西インド諸島行きの船長に売り渡す。彼はモンセラート島のクエーカー教徒の商人ロバート・キングの手に渡った。キングのもとで船荷の管理や航海の手伝いをしながら、自分でも少しずつ品物を仕入れて島から島へ売り、金を貯めた。キングは、買った値段の40ポンドを払えば自由を認めると約束していた。1766年、彼はその金を差し出し、自由証書を手にした。自分の体の値段を、自分で払ったことになる。

オラウダ・イクイアーノの肖像
オラウダ・イクイアーノの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

自由になってからも、船乗りとして働き続けた。地中海や中米へ行き、1773年には北極点を目指すイギリスの探検航海にも加わっている。一時はロンドンで理髪師の仕事も覚えた。信仰を深め、メソジストの説教に心を動かされた経験を自伝に長く書いている。

1780年代、ロンドンで奴隷貿易の廃止を求める運動が起こると、彼はその中心にいた黒人の一人になった。1783年、奴隷船ゾング号の船長が保険金のために百数十人のアフリカ人を海に投げ込んだ事件を、廃止論者のグランヴィル・シャープに知らせたのは彼だとされる。1786年には、ロンドンの貧しい黒人をシエラレオネへ移住させる政府の計画で、物資の担当官に任じられた。ところが物資の横領を告発したところ、逆に解任されてしまう。

1767年、バハマ・バンクスでの船ナンシー号の難破(『イクイアーノの興味深い生涯の物語』より)
1767年、バハマ・バンクスでの船ナンシー号の難破(『イクイアーノの興味深い生涯の物語』より)Wikimedia Commons Barnes & Co. Sc., after Atkins del. · Public domain

1789年、自伝『アフリカ人オラウダ・イクイアーノ、またはグスタヴス・ヴァッサの興味深い物語』を出した(イクイアーノの自伝)。予約購読者を募って出版した本で、名簿には王族や議員も名を連ねた。彼は本を携えてイギリス各地とアイルランドを回り、講演して売った。生前に9版を重ね、オランダ語やドイツ語にも訳された。議会で奴隷貿易が審議されるたびに、この本は引き合いに出された。

奴隷にされた当人が、自分の言葉で、教養ある英語で書いたこと。それ自体が、アフリカ人は劣っているという奴隷制擁護の論を崩した。商人として、船乗りとして、キリスト教徒として生きた経歴も、読者が自分を重ねやすい語り手にしていた。

イクイアーノあるいはサンチョと見られたこともある人物の肖像
イクイアーノあるいはサンチョと見られたこともある人物の肖像Wikimedia Commons Unknown; Allan Ramsay (formerly attributed artist); Sir Joshua Reynolds (formerly attributed artist) · Public domain

1792年、ケンブリッジシャーのイギリス人女性スザンナ・カレンと結婚し、二人の娘をもうけた。本の印税で、彼は当時の黒人としては珍しく財産を残している。1797年3月31日、ロンドンで死んだ。50歳前後だった。

イギリスが奴隷貿易を禁じたのは、彼の死から10年後の1807年である。奴隷制そのものの廃止は、さらに26年後のイギリスの奴隷制廃止法を待たなければならなかった。彼の自伝はその後長く忘れられたが、20世紀後半に奴隷の手記の古典として読み直され、いまでは英語で書かれた黒人文学の出発点の一つに数えられている。

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