ガーナ王国の金と塩の交易
概要
サハラを越えて南の金と北の塩を交換した。この道の上に、のちのマリ・ソンガイが立つ。
場所
15.77°N -7.98°E · モーリタニア(ガーナ帝国の都の推定地)
本文
サハラ砂漠の南の縁、いまのモーリタニアの南東部からマリの西部にかけての草原に、古代のガーナ王国があった。住民はソニンケの人々で、彼らは自分たちの国をワガドゥと呼んだ。ガーナとは、もともとは王の称号だったとされる。いつ国が始まったのかははっきりしないが、8世紀にはアラブの書物に「金の国」として名が現れる。
金は、この国の南、セネガル川の上流とその支流ファレメ川にはさまれたバンブクと呼ばれる地方などで採れた。川の砂や浅い穴から、土地の人々が掘り出していた。ガーナ王国は、その産地そのものを治めてはいなかったと考えられている。王国が握ったのは、南の金の産地と、北のサハラを越える道とのあいだの位置だった。
北から来るのは塩だった。南の森や草原の地方では、塩がほとんど採れない。暑い土地で働く人や家畜にとって、塩は欠かせない。サハラの真ん中には、太古の湖の跡に塩の層が眠る場所があり、そこで切り出された塩の板が、ラクダの背に積まれて南へ運ばれた。ラクダがサハラに入ってきたことで(サハラへのラクダの導入)、何十日もかかる砂漠の横断が商いとして成り立つようになっていた。北アフリカの側の出発点は、いまのモロッコにあったオアシスの町シジルマーサなどである。
商人たちは、北から塩や布、銅、馬などを運び、南から金や象牙、そして奴隷を持ち帰った。ガーナの王は、国を通る品に税をかけた。11世紀にスペインのアラブ人地理学者バクリーが書いた記録によれば、王国に塩を持ち込む者も、持ち出す者も、ロバ一頭分ごとに金で税を払った。さらに、金の塊は王のものとされ、民が持てるのは砂金だけだった。こうして王は、金の値が下がらないよう、出回る量を抑えていたとバクリーは説明している。

バクリーは、都の様子も書き残している。都は二つの町からなっていた。一つはムスリムの商人たちが住む町で、12のモスクがあった。もう一つは王の住む町で、王は金で飾った天幕の中で人々の訴えを聞き、王の犬たちの首輪まで金でできていたという。王は伝統の神々を祀っていたが、役人にはムスリムを使っていた。いまのモーリタニアのクンビ・サレーの遺跡が、この都の跡と考えられている。
金の産地の場所は、秘密にされた。アラブの地理学者たちは、金がどこで、どのように採れるのかを書こうとして、くり返し、はっきりとは分からないと記している。そうした記録の中に、無言の交易の話がある。商人が川岸に品物を並べて立ち去ると、金を持つ人々が来て、品物の脇に金を置いて去る。商人が戻り、金の量に満足すれば金を取って帰り、足りなければまた立ち去って、金が足されるのを待つ。顔を合わせず、言葉も交わさない。似た話は古代ギリシアのヘロドトスにもあり、どこまで実際の姿を伝えているのかは分からない。ただ、産地の人々が自分たちの土地を明かさずに取り引きしていたことは確かだとされる。

サハラを越えた金は、北アフリカやエジプトのイスラームの国々の金貨になり、やがて地中海を越えてヨーロッパにも渡った。中世の地中海世界の金の多くは、西アフリカから来ていたと考えられている。
11世紀、サハラの西部でベルベル人のムラービト朝が興り、北のサハラの交易の拠点を奪った。1076年にはガーナの都も攻め落とされたと、のちのアラブの書物は伝える(ムラービト朝のガーナ攻撃)。ただし、本当に征服されたのか、どの程度の打撃だったのかについては、研究者のあいだで議論がある。いずれにせよ、ガーナ王国はこの後しだいに衰えた。
金と塩の道は、国が変わっても残った。13世紀には、その南のニジェール川の流域にマリ帝国が興り(マリ帝国の成立)、より南の金の産地まで押さえた。14世紀にマリの王マンサ・ムーサが大量の金を持ってメッカへ巡礼したとき、エジプトでは金の値が下がったと伝えられる(マンサ・ムーサの巡礼)。そのあとにはソンガイ帝国が続く(ソンガイ帝国の最盛期)。1957年、イギリスの植民地ゴールド・コーストが独立したとき、新しい国はこの古い王国の名を借りてガーナと名乗った(ガーナの独立)。場所は古代の王国とは離れているが、アフリカの人々が自分たちの手で富と国を築いた歴史を、その名に込めたのである。