できごと

カリカット到着

Arrival at Calicut
AD1498年5月20日
重要度 4
オーストラリア先住民(狩猟採集)バントゥー系の人びと明西アフリカの穀作農民ティムール朝の諸侯国チャガタイ汗国チベットアラブ系の人びと白羊朝ティムール朝マムルーク朝マレーのイスラム諸国オスマン帝国デリー・スルタン朝ビルマの諸王国エチオピア帝国Rajastanベンガルマダガスカルアユタヤ朝ヴィジャヤナガル王国Sindハドラマウトアフマドナガル王国イスラムの都市国家群大越フィリピンBerar大越GondwanaイエメンGujaratMalaccaカンボジアFunjPunjabマジャパヒトマスカットヴェネツィア共和国ネパールオリッサBijapurラオスGolkondaPeguシンハラの諸王国AD1498年5月20日カリカット
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1498年5月20日の版図を描いています(46勢力)。

概要

数百年動いていたインド洋交易に、ヨーロッパの船が外から入ってきた。持参した贈り物は現地の基準では貧弱で、王の側は相手にしなかったと伝わる。

場所

カリカット
11.26°N 75.78°E · インド・ケーララ州(コーリコード)

関わった人(1)

ヴァスコ・ダ・ガマAD1460年代–AD1524年 · 到達

本文

1498年5月20日、ヴァスコ・ダ・ガマの船がインドの南西岸、カリカットの沖に着いた。リスボンを出てから10か月あまりがたっていた。

ポルトガルは、この日のために80年近く、アフリカの西岸を少しずつ南へ下ってきた。目当ては、インドの胡椒をはじめとする香辛料である。それまで香辛料はインド洋からエジプトや中東を経て、最後はヴェネツィアの商人の手でヨーロッパに入っていた。途中で何度も税と儲けが上乗せされる。直接インドへ行ければ、その上乗せを丸ごと手にできる。1488年、バルトロメウ・ディアスがアフリカの南端を回り(喜望峰の回航)、道が開けていることを示した。

Ignoto portoghese, ritratto di un cavaliere dell'ordine di cristo, 1525-50 ca. 02
Wikimedia Commons Sailko · CC BY 3.0

1497年7月、ガマは4隻、170人ほどで出発した。南大西洋を大きく迂回して喜望峰を回り、アフリカの東岸を北上した。モザンビークやモンバサでは、ムスリムの商人たちと衝突しかけている。マリンディで、ようやく友好的な王に出会い、インド洋を渡る水先案内人を得た。そこから季節風に乗って、3週間あまりでインドに着いた。

航海の記録は、乗組員の一人が書いた日誌として残っている。それによると、最初に上陸した者が出会ったのは、北アフリカのチュニスから来た商人だった。商人はスペインの言葉で、悪魔にさらわれろ、何をしにここへ来た、と言ったという。キリスト教徒と香辛料を探しに来た、と答えたと日誌は書く。インド洋の港には、アラビアからも、ペルシアからも、東アフリカからも、中国からも商人が来ていた。ヨーロッパから来た船は、その大きな交易の世界に、遅れて外から入ってきた一隻にすぎなかった。

生誕地シーネスにあるヴァスコ・ダ・ガマ像
生誕地シーネスにあるヴァスコ・ダ・ガマ像Wikimedia Commons Georges Jansoone · CC BY 2.5

ガマは、カリカットの王ザモリンに会った。カリカットは胡椒の積み出しで栄える港で、王はその交易から多くの収入を得ていた。ガマが用意した贈り物は、縞の布12反、赤い頭巾、帽子、珊瑚の首飾り、手洗いの鉢、砂糖、油、蜂蜜。日誌によれば、王の役人はそれを見て笑い、メッカから来るいちばん貧しい商人でも、もっと良い物を持ってくる、と言った。王に捧げるなら金でなければならない、と。

アフリカの西岸の交易で喜ばれた品を、そのまま持ってきていた。ヨーロッパの品で、インドの市場で欲しがられるものはほとんど無かった。相手の豊かさを、ガマたちは見誤っていた。ポルトガル人はインドに来たら東方のキリスト教徒に会えると信じており、ヒンドゥーの寺院をキリスト教の教会と思い込んで祈りを捧げた、とも日誌は書いている。

ヴァスコ・ダ・ガマのリスボン出航
ヴァスコ・ダ・ガマのリスボン出航Wikimedia Commons John Henry Amshewitz · Public domain

交渉はうまくいかなかった。港の有力なムスリム商人たちは新参者を警戒し、王の役人との間でも行き違いが続いた。ガマは正式な通商の約束を得られないまま、8月にカリカットを離れた。それでも、積める限りの胡椒とシナモンなどを手に入れていた。

帰りは季節風の向きを読み違え、アラビア海を渡るのに3か月近くかかった。壊血病で多くの乗組員が死んだ。1499年にリスボンへ戻れたのは4隻のうち2隻、乗組員は出発時の3分の1ほどだったとされる。ガマの兄も帰りの途中で死んでいる。

カレクト(コーリコード)上陸の絵
カレクト(コーリコード)上陸の絵Wikimedia Commons Ernesto Casanova · Public domain

それでも、持ち帰った香辛料は航海の費用を大きく上回る値で売れた。何十倍の利益が出たとも言われる。ポルトガル王は、自分を「エチオピア、アラビア、ペルシア、インドの征服と航海と通商の主」と名乗った。

1500年、ペドロ・アルヴァレス・カブラルが13隻の船団でインドへ向かった。途中で西へ流されてブラジルに着き(カブラルのブラジル到達)、その後カリカットで商館を置いたが、ムスリム商人との争いから商館が襲われ、カブラルは町を砲撃した。1502年、ガマは再び20隻の艦隊を率いて来た。その航海では、メッカ帰りの巡礼者を乗せた船を焼き、カリカットを砲撃している。商人としてではなく、砲を持つ者として、ポルトガルはインド洋に居場所を作ろうとした。

リスボン港を出発するヴァスコ・ダ・ガマ
リスボン港を出発するヴァスコ・ダ・ガマWikimedia Commons Roque Gameiro · Public domain

ポルトガルはゴアに拠点を置き、1511年にはマラッカの陥落で東南アジアへの入口を押さえた。それでも、インド洋の交易全体を支配したわけではない。ポルトガルが押さえたのは港と航路のいくつかで、アジアの商人たちの交易はその後も続いた。インド洋が数百年かけて作ってきた交易の網に、武装した新しい参加者が加わった。カリカット到着は、その始まりの日として記憶されている。60年あまり前、中国の鄭和の南海遠征もこの港に寄っていたが、明の船団は戻ってこなかった。ポルトガルの船は戻ってきた。

出典(1)

ジャネット・L・アブー=ルゴド(佐藤次高ほか 訳) 『ヨーロッパ覇権以前 もうひとつの世界システム』第III部 アジア(インド洋)

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