アミナ女王のザザウ

概要
ハウサの都市国家を率いて周辺を従え、交易路を押さえた。土を突き固めた壁で町を囲む様式が「アミナの壁」として残る。実在を疑う説もある。
場所
11.09°N 7.72°E · ナイジェリア・カドゥナ州
関わった人(1)
アミナ女王AD1533年頃–AD1610年頃 · 女王本文
いまのナイジェリアの北部、サハラ砂漠の南に広がるサバンナには、15世紀から16世紀にかけて、ハウサの人々の都市国家がいくつも並んでいた。カノ、カツィナ、ゴビル、ザザウなどで、それぞれが城壁に囲まれた町を中心に周りの村々を治め、手工業と交易で栄えていた(ハウサ諸都市とカノ)。ザザウは、そのうちの南の端にあった国で、いまのザリアの町がその中心にあたる。
アミナ女王は、このザザウの王女だったと伝えられる。伝承によれば、母は王位にあった女王バクワ・トゥルンクで、アミナは幼いころから宮廷の政治と戦いの技に親しんだ。16歳で王位を継ぐ者に選ばれ、騎兵としての訓練を受け、男たちの戦士とともに戦場に出たという。結婚を勧められても断り続けた、とも伝えられる。

母の死後、王位はまずアミナの弟が継ぎ、アミナは軍の指揮をとった。弟の死後、アミナ自身が王位に就いたとされる。即位すると、アミナは兵を率いて周りの町々を次々に従えた。伝承は、その遠征が30年あまり続き、ハウサの地のほかの国々にまで貢ぎ物を納めさせたと語る。
その狙いは、交易の道にあったと考えられている。ザザウはハウサの国々の南の端にあり、南の森の地帯と、北のサハラを越えてくる隊商の道とをつなぐ位置にあった。南からは、噛むと眠気を払うコーラの実が北へ運ばれた。イスラームでは酒が禁じられていたため、コーラの実はサハラの北でも好まれる品だった。北からは塩や馬、布、北アフリカの金属製品が入ってきた。人もまた商品として運ばれた。アミナは、南のクワラーラファや西のヌペの方面に勢力を伸ばし、こうした南北の道を押さえようとしたとされる。
アミナの名と最も強く結びついているのが、城壁である。土を突き固めて造った厚い壁で町や陣営を囲む築き方で、アミナは遠征のたびに陣を土の壁で囲ませたと伝えられる。ハウサの地の各地に残る古い土の城壁が、いまも「ガヌワール・アミナ(アミナの壁)」と呼ばれている。ザリアの旧市街を囲む壁もその一つとされる。ただし、どの壁が実際にアミナの時代のものなのかは、ほとんど確かめられていない。
アミナの物語には、後の時代の脚色も多い。征服した町ごとに一夜限りの夫を持ち、翌朝には殺させた、という話まで伝わっているが、これは後世に付け加えられた伝説とみられる。
アミナについての記録は、ほとんどが口伝えの伝承と、ずっと後の時代に書かれた年代記に頼っている。いちばん古い書かれた記録とされるのが、カノの歴代の王の事績を記した『カノ年代記』で、そこにはザザウの女王アミナが周りの国々を従え、カノもその貢ぎ物を納めた、という短い記述がある。だが、この年代記が文字にまとめられたのは19世紀の末とされる。19世紀の初めにハウサの地を征服したソコトの指導者ムハンマド・ベロも、アミナについて書いている(ソコト帝国の成立)。
生きた時代についても説が分かれる。『カノ年代記』の記述の位置からは15世紀の前半と読めるが、ザザウの王の系譜などからは16世紀の後半とする見方が多い。記録の少なさから、アミナを一人の実在の人物ではなく、何人かの女性の指導者の記憶が重なり合った伝説の人物と見る研究者や、実在そのものを疑う研究者もいる。
それでも、ハウサの地に女性が政治と軍事の中心に立つ伝統があったことは、ほかの記録からもうかがえる。王の母や姉妹が高い称号を持ち、宮廷で力をふるった例は少なくない。19世紀にイスラームの改革運動がハウサの国々を征服したあと、女性が表の政治に立つことは難しくなった。アミナの物語は、それ以前の時代の記憶をとどめている。
今日のナイジェリアで、アミナは国民的な人物として語られている。ラゴスには馬にまたがった彼女の像が立ち、学校や通りにその名が付けられ、映画やテレビの主人公にもなった。強い女性の指導者として、また植民地化よりはるか前にアフリカに力強い国々があったことの象徴として、アミナは記憶されている。南のベニン王国(ベニン王国の青銅器)や西のソンガイ帝国(ソンガイ帝国の最盛期)と並んで、西アフリカの豊かな過去を語るときに欠かせない名前になっている。