シャンパーニュの大市

概要
年に六度、北の毛織物と南の香辛料がこの平野で出会った。伯爵が道中の安全と裁判を保証し、そこで為替と信用取引の作法が育つ。
場所
48.30°N 4.07°E · フランス・オーブ県(シャンパーニュ)
本文
12世紀のヨーロッパでは、二つの経済の中心が育ちつつあった。北では、フランドルの町々がイングランドの羊毛を仕入れて上質の毛織物を織っていた。南では、ヴェネツィアやジェノヴァなどイタリアの商人が、地中海の東から香辛料や絹、染料を運んできていた。北の布と南の品を交換する場所が要った。その場所になったのが、パリの東に広がるシャンパーニュの平野だった。
シャンパーニュ伯の領地の四つの町で、年に六度、大市が立った。ラニーで一度、バール=シュル=オーブで一度、プロヴァンで二度、トロワで二度。一つの市は6週間ほど続き、終わると次の町へ移る。一年がそれで一巡した。プロヴァンやトロワには、いまも当時の石造りの倉や城壁が残り、市の町の面影を伝えている。市はいくつかの期間に分かれていた。まず商人が到着して店を開き、次に毛織物の取引、続いて皮革や毛皮、その他の品の取引が行われ、最後の期間が支払いに充てられた。

北からはフランドルとアルトワの毛織物、南からはイタリアの商人が運ぶ香辛料、絹、明礬や染料。ドイツの金属製品、スペインの革、フランス各地の馬や葡萄酒もあった。アルプスの南と北、地中海と北海の品が、ここで出会った。
伯は二つのものを保証した。道中の安全と、契約の裁判になる。伯は市へ向かう商人を、自分の領地の外でも守ろうとし、商人に害を加えた土地の者には、その土地の商人を市から締め出すという制裁で応じた。市には専任の役人が置かれ、商人どうしの揉め事を裁き、その判決はよその土地でも効力を持つよう努めた。遠くから来た見知らぬ者どうしが、安心して取引できる。それが市の値打ちだった。伯にとっては、市で取る税や手数料が大きな収入になった。
市の最後の日々には、帳簿の突き合わせが行われた。この頃には、商人は品物を現金で一つずつ買うのではなく、市の期間中に取引を重ね、最後に貸し借りを差し引きして、残りだけを払うようになっていた。次の市で払うと約束する証書、遠くの町で別の通貨で払うと約束する為替の証書が使われ、両替商と公証人がそれを支えた。現金を運ばずに、遠くの相手と貸し借りを決済する。のちの銀行や為替手形の仕組みは、こうした市の実務の中で育った。
13世紀の後半から、市は衰えていく。理由はいくつも重なった。一つは政治だった。1284年、シャンパーニュ伯の跡取り娘がフランス王子と結婚し、のちのフィリップ4世のもとで伯領はフランス王家のものになった(フィリップ4世(美男王))。王はフランドルと争い、フランドルの商人の行き来を妨げ、イタリアの商人に重い税をかけた。伯が守ってきた市の中立と安全は失われた。
もう一つは道の変化だった。1270年代の終わりから、ジェノヴァのガレー船がジブラルタル海峡を抜けて、フランドルのブリュージュまで直接行くようになった。陸の道を何週間もかけて通る理由が減った。アルプスを越える新しい道が開かれ、ドイツを通ってイタリアと北を結ぶ道も使われるようになった。
商いのやり方そのものも変わった。イタリアの大きな商社は、各地の町に支店と代理人を置くようになり、商人自身が品物とともに市から市へ旅する必要がなくなった。のちのメディチ銀行につながる、定住した商人の時代になる。14世紀に入ると、百年戦争が北フランスを荒らし、市はほとんど国内の小さな市に戻っていった。
『ヨーロッパ覇権以前』は、この市を13世紀の世界システムの西の端に置いた(物語「『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀」)。シャンパーニュで交わされた品は、イタリアの港、エジプトやシリアの市場、インド洋の港を経て、東の端の泉州の海上交易までつながっていた。ヨーロッパは、その大きなつながりの、まだ周縁の一部にすぎなかった。