できごと

大宛遠征(汗血馬)

War of the Heavenly Horses
BC104年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC104年の版図を描いています(34勢力)。

概要

武帝が「血の汗をかく天馬」を求めた。大宛は使者を殺した。李広利が数万で行き、飢えて帰り、武帝が「玉門関を入るな」。もう一度、6万。大宛は王の首を差し出し、馬3000頭。帰ったのは1万。西域の道が、馬のために開いた。

場所

フェルガナ(大宛)
40.38°N 71.78°E · ウズベキスタン

関わった人(1)

漢の武帝BC156年–BC87年 · 求めた

本文

漢の武帝は、北の匈奴と戦い続けた皇帝である。草原の騎馬の民と戦うには、良い馬がいる。漢の馬は小柄で、匈奴の馬と変わらなかった。西の果てに優れた馬がいると伝えたのは、西域を歩いて帰った張騫だった(張騫の西域派遣)。中央アジアのフェルガナの盆地にあった国、大宛には、血のような汗を流す馬がおり、天馬の子だと言われている、と彼は報告した。

武帝ははじめ、西の烏孫が贈ってきた馬を「天馬」と名づけていた。占いの書に、神馬は西北から来るとあったからだという。のちに大宛の馬を見ると、こちらこそ天馬だとして、烏孫の馬は「西極」と呼び直した。武帝は使者を送って馬を求めたが、大宛は良い馬を弐師城に隠し、渡そうとしなかった。司馬遷の『史記』によれば、漢は千金と金で作った馬を持たせて重ねて求めたが、大宛の人々は、漢は遠く、途中には砂漠があって大軍は来られないと見て断った。怒った使者は金の馬を打ち壊し、罵って去った。大宛は東の郁成の王に命じて、帰り道の使者を襲わせ、殺して財宝を奪った。

弩を構える兵士を描いた漢代の戦闘場面のレンガ画
弩を構える兵士を描いた漢代の戦闘場面のレンガ画Wikimedia Commons Gary Todd from Xinzheng, China · CC0

BC104年、武帝は寵愛する李夫人の兄の李広利を「弐師将軍」に任じ、大宛を討たせた。将軍の名は、馬のいる町の名から取られている。従ったのは、服属した異民族の騎兵6000と、各地から集めた素行の悪い若者たち数万だった。軍が西へ進むと、途中のオアシスの国々は城を閉ざして食べ物を出さない。攻め落とせばそこで食べ、落とせなければ素通りするしかなく、郁成に着いたときには兵は数千に減って飢えていた。郁成で敗れた李広利は、引き返して2年ぶりに敦煌にたどり着いた。生き残ったのは出発時の1、2割だったという。

李広利が兵を休ませたいと願い出ると、武帝は激怒した。使者を玉門関に送り、軍で関を入ろうとする者は斬れ、と命じた。李広利は関の外の敦煌にとどまるしかなかった。朝廷では遠征をやめるべきだという声も上がったが、武帝は、小国に負けたままでは西域の国々に侮られ、良馬も手に入らないとして聞かなかった。

漢代(前1世紀)の馬の胸像、陶製
漢代(前1世紀)の馬の胸像、陶製Wikimedia Commons Daderot · CC0

BC102年、二度目の遠征が出た。兵6万に、牛10万頭、馬3万頭あまり、ロバやラバ、ラクダが数万。兵糧を運ぶ人夫も加わり、さらに後ろ盾として18万の兵が河西の酒泉と張掖に置かれた。今度は途中の国々も逆らえず、逆らった輪台は滅ぼされた。大宛の都に着いた漢軍は、水の技術者に城へ流れ込む川の流れを変えさせた。都の内には井戸が無く、水を外の川に頼っていたからである。包囲は40日あまりに及び、外の城が破られた。

追い詰められた大宛の貴族たちは、漢の使者を殺したのは王の毋寡だとして王を殺し、その首を差し出して申し入れた。囲みを解けば良い馬を好きなだけ渡す。解かなければ馬を皆殺しにし、西の康居の援軍を待って戦う、と。漢の側でも、城内にはすでに井戸を掘る技術を持つ者が入ったと聞き、長い包囲は損だと見た。和議が結ばれ、漢は良馬数十頭と、中ほど以下の牡と牝3000頭あまりを選んで受け取り、漢に親しい貴族の昧蔡を王に立てて引き揚げた。

武帝(劉徹)の肖像
漢の武帝Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

帰り着いて玉門関を入ったのは1万人あまり、軍馬は1000頭あまりだったと『史記』は記す。兵糧に困ったわけではなく、将校たちが兵を大事にせず、取り分を奪ったために多くが死んだのだという。それでも武帝は大いに喜び、李広利を海西侯に封じた。武帝は「天馬来たる、西極より」と始まる歌を作らせている。大宛では1年あまり後、貴族たちが昧蔡を殺し、毋寡の弟を王に立てたが、新しい王も子を人質として漢に送った。

遠征の結果、西域の国々は漢の力を思い知り、使者を送ってくるようになった。漢は敦煌から西へ見張りの砦を連ね、輪台などに兵を置いて畑を作らせた。BC60年には西域を治める役所が置かれ、のちの班超の西域経営へとつながる。のちに絹の道と呼ばれる東西の道は、一つには馬を求める欲望によって開かれたのだった。

「汗血馬」の正体ははっきりしない。いまのトルクメニスタンのアハルテケのような、背が高く速い中央アジアの馬だったとみる説がある。血の汗については、皮膚に住みつく寄生虫のせいで、走ると小さな傷から血がにじんだのだろう、という説明がよく挙げられる。

遠征を率いた李広利のその後は暗い。BC90年、匈奴との戦いの途中で、都で家族が罪に問われたことを知って焦り、敗れて匈奴に降った。単于に厚遇されたが、1、2年後、匈奴の内部の争いの中で殺され、神への供え物にされたと伝えられる。これより前のBC99年には、李広利の出陣に合わせて別に兵を率いた李陵が匈奴に降り、彼をかばった司馬遷が宮刑に処されている。司馬遷はその屈辱に耐えて書き続け、この遠征の顛末を『史記』の「大宛列伝」に書き残した(『史記』の完成)。

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