アフォンソ1世の手紙
概要
「私の国が空になってしまう」。人の売買をやめるよう求めてポルトガル王に書き送った。手紙は残り、売買は止まらなかった。
場所
-6.27°N 14.25°E · アンゴラ・ザイーレ州
関わった人(1)
アフォンソ1世AD1456年頃–AD1543年 · 差出人本文
15世紀の終わり、コンゴ川の河口の南に広がるコンゴ王国は、中央アフリカの西部で最も大きな国の一つだった。都はムバンザ・コンゴ。王は各地の領主を任命し、貝殻の貨幣で税を集めた。1483年、ポルトガルの航海者ディオゴ・カンの船がコンゴ川の河口に現れ、両国の付き合いが始まる(コンゴ王国とポルトガルの接触)。
付き合いは、はじめは対等な国どうしとして進んだ。1491年、王ンジンガ・ア・ンクウはポルトガルから来た司祭の手で洗礼を受けた。その子ンジンガ・ムベンバもこのとき洗礼を受け、アフォンソと名乗った。父の死後、アフォンソはキリスト教に反対する異母兄弟と王位を争い、1506年ごろに勝って王となった(アフォンソ1世)。この戦いのとき、空に十字架と聖ヤコブが現れて味方したという話が後に語られ、王国の紋章にもなった。

アフォンソは、キリスト教とヨーロッパの知識を国づくりに取り込もうとした。都に教会と学校を建て、貴族の子弟にポルトガル語の読み書きを学ばせた。息子のエンリケをリスボンへ留学させ、エンリケは1518年、ローマ教皇によって司教に任じられている。サハラより南のアフリカ人として、最初期の司教である。アフォンソ自身もポルトガル語を読み書きし、ポルトガルの法律書を取り寄せて読んだという。
だが、両国のやり取りの中身は、しだいに人の売買へと傾いていった。王国の沖合にあるサントメ島では、ポルトガル人がサトウキビの農園を開き、働き手として奴隷を必要としていた。さらに大西洋の向こうでは、新大陸の植民地が働き手を求めはじめる(大西洋奴隷貿易)。コンゴの側でも、戦争の捕虜などを奴隷として売る慣行はもともとあった。王はその売買を自分の管理の下に置き、ポルトガルの品物や技術と引き換えにしていた。

ところが、ポルトガルの商人たちは、王の統制を通さずに内陸へ入り込み、地方の領主や仲買人から直接に人を買い集めるようになった。売る相手が増えると、人を捕らえて売ることが儲かる商売になる。王に従わない領主が力をつけ、王国の秩序そのものが揺らぎはじめた。
1526年、アフォンソはポルトガル王ジョアン3世に手紙を送った。7月の日付を持つ手紙で、王は次のように訴えている。商人たちが国のいたるところで好き勝手に振る舞い、毎日のように我々の臣民が、それも貴族の身内や我々の親族までが捕らえられ、売られている。このままでは私の国が空になってしまう。我々の国には、司祭と学校の教師、それにミサのためのぶどう酒と小麦のほかは何も要らない、と。

王はこの手紙で、この国では奴隷の取引も積み出しもあってはならない、とまで書いている。奴隷貿易をアフリカの側から告発した記録として、よく引かれる手紙である。だが全面的にやめさせることはできなかった。同じ年の秋には、王は役人による審査の仕組みを作り、国から積み出される奴隷が、正当な手続きで得られた者かどうかを確かめさせている。禁止から統制へ、王は現実に合わせて手を変えた。王が何より求めたのは、王の権威の及ばないところで自分の臣民が売られることをやめさせることだった。
ポルトガルの王の返事は来た。だが売買は止まらなかった。ポルトガル側は、コンゴから得られる商品は人のほかにほとんど無いという立場をとった。アフォンソはその後も繰り返し手紙を書き、医者や薬を送るよう頼み、商人たちの横暴を訴え続けた。1540年ごろには、教会でミサにあずかっていた王が、ポルトガル人の一団に撃たれかける事件まで起きている。アフォンソは1542年ごろに亡くなった。
アフォンソの手紙は、ポルトガルの国立の文書館に何十通も残っている。16世紀のアフリカの王が、自分の言葉で自分の国の危機を書き残した、まれな記録である。
その後、ポルトガルの奴隷貿易の中心は、コンゴの南に築かれたルアンダへ移っていく。コンゴ王国は1665年にポルトガルの軍に敗れ、やがて内戦で分裂した。以後300年あまりのあいだ、この中央アフリカ西部の海岸から大西洋を越えて運ばれた人の数は、数百万にのぼると推計されている。大西洋を渡った奴隷の全体の中で、最も多くの人が積み出された地域である(コンゴ王国)。