できごと

カネム=ボルヌの隆盛

Kanem-Bornu Empire
AD1100年頃
重要度 3
バントゥー系の人びと西アフリカの穀作農民セルジューク朝ムラービト朝ファーティマ朝ガズナ朝オグズ東ローマ帝国マクリアルーム・セルジューク朝アルワガーナ帝国イスラムの都市国家群ハドラマウトイエメンカネムガーナアルメニアマリマスカットエルサレム王国TakrurDutchy of BeneventoAD1100年頃チャド湖(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1100年頃の版図を描いています(23勢力)。

概要

チャド湖の周りで千年近く続いた国。サハラ縦断路の東側の出口を押さえた。

場所

チャド湖位置は特定されていない(誤差 ±km)
13.25°N 14.00°E · チャド・ニジェール・ナイジェリア・カメルーン

本文

アフリカのほぼ真ん中、サハラ砂漠の南の縁に、チャド湖という大きな浅い湖がある。周りは草原と畑が広がる豊かな土地で、北へ向かえば砂漠のオアシスをたどってリビアのフェザーン、さらに地中海岸のトリポリへ抜けられる。西アフリカの金を運ぶ西の交易路に対して、ここはサハラを縦断するもう一つの大きな道の南の出口だった。ラクダが砂漠を渡る足になってから(サハラへのラクダの導入)、この道は人と物を運び続けた。

湖の北東のカネムに、9世紀ごろには一つの王家が現れていた。王家は伝説上の英雄サイフの子孫を名乗り、のちにサイファワ朝と呼ばれる。初めは遊牧の民を束ねる首長の家だったが、北の交易の相手と結びつくことで力を増した。11世紀の後半、王のフンメがイスラームに改宗し、以後、王家はイスラームの君主として続いていく。王家の歴代の王の名と事績を記した王統記が伝わっており、この国の長い歴史をたどる手がかりになっている。

13世紀の前半、ドゥナマ・ディッバレミ王の時代に、カネムは北のフェザーンまで支配を広げ、サハラ縦断路の大部分を押さえた。王は聖地への巡礼に出て、エジプトのカイロにはカネムから来た学生のための学寮が建てられた。北アフリカやエジプトの学者たちも、この国のことを書き残している。同じ頃、西ではガーナ王国の金と塩の交易の時代が終わり、マリが金の交易を握っていた(マンサ・ムーサの巡礼)。

マンサ・ムーサの巡礼に関わる図版:Catalan Atlas BNF Sheet 6 Mansa Musa (cropped)
マンサ・ムーサの巡礼Wikimedia Commons attributed to Abraham Cresques · Public domain

この道で北へ運ばれた商品のうち、大きな割合を占めたのは人だった。カネムの軍は南の、イスラームを受け入れていない土地を襲って人々を捕らえ、奴隷として北アフリカや中東へ送り出した。北からは馬、武器、布、塩、銅が入ってきた。馬は南の土地への襲撃に使われ、襲撃で得た人がまた馬と交換される。この循環は数百年にわたって続き、チャド湖の南の人々に大きな傷を残した。

14世紀に入ると、カネムは王家の内紛と、東から来たブララという集団の攻撃に苦しんだ。14世紀の後半、王家は本拠のカネムを捨て、湖の西側のボルヌへ移った。新しい土地で国を立て直すのに100年ほどかかり、15世紀の末、アリー・ガジ王がボルヌに城壁で囲まれた都ビルニ・ンガザルガムを築いた。ここから国はボルヌと呼ばれるようになり、のちにカネムも取り戻して、両方を合わせてカネム=ボルヌと呼ばれる。

カネム・ボルヌ帝国の軍隊
カネム・ボルヌ帝国の軍隊Wikimedia Commons Elisee Reclus · Public domain

最も強かったのは、16世紀後半のイドリース・アローマ王の時代である。王は聖地巡礼の途中でオスマン帝国の軍の銃の威力を知り、北アフリカから銃と、銃を扱うトルコ人の兵を招き入れた。銃を持つ兵と、鎖帷子で身を固めた騎兵を組み合わせた軍で、王は周りの民を従え、西のハウサの諸都市(ハウサ諸都市とカノ)にも圧力をかけた。王の宮廷にいたイマームのアフマド・ブン・フルトゥが、遠征と統治の記録を残している。王は法の執行をイスラームの法学者にゆだね、モスクを石とれんがで建て替えた。

19世紀の初め、西でソコト帝国(ソコト帝国の成立)を建てたフラニの改革運動がボルヌにも押し寄せ、1808年ごろには都が落とされた。このときボルヌを救ったのは、カネム出身の学者で戦士のムハンマド・アル=アミーン・アル=カネミーだった。彼は兵を集めて侵入者を退け、そのまま国の実権を握った。サイファワ朝の王は名だけの存在になり、1846年に最後の王が殺されて、千年近く続いた王家は途絶えた。アフリカの王家としては最も長く続いたものの一つとされる。

14世紀のカタロニア地図に描かれた「オルガナ」とその王。カネム=ボルヌとの同定説がある
14世紀のカタロニア地図に描かれた「オルガナ」とその王。カネム=ボルヌとの同定説があるWikimedia Commons Cresques Abraham · Public domain

国はカネミー家のもとで続いたが、19世紀の末、東のスーダンから来た軍人ラービフに征服される。ラービフは1900年にフランス軍との戦いで戦死し、チャド湖の周りはイギリス・フランス・ドイツの植民地に分けられた(アフリカ分割)。湖は今、ナイジェリア、ニジェール、チャド、カメルーンの四か国の国境が交わる場所になっている。ナイジェリアのマイドゥグリには、カネミー家の血を引くボルヌの伝統的な首長が今も置かれ、その称号に千年の国の名残をとどめている。

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