ポトシ銀山の開発
概要
南米の銀がヨーロッパを経て中国へ流れた。世界で最初の、地球を回るお金の流れ。
場所
-19.58°N -65.75°E · ボリビア
本文
アンデスの高原、いまのボリビア南部に、赤茶けた円錐形の山がそびえている。頂は標高4800メートルに近い。スペイン語で「豊かな山」を意味するセロ・リコと呼ばれるこの山は、まるごと銀の鉱脈が詰まっていた。インカ帝国の滅亡から十数年後の1545年、先住民の男がこの山で銀の鉱脈を見つけた、と伝えられる。インカの時代にも銀が出ることは知られていたらしいが、スペイン人が来てから、その掘り方は桁違いになる。
山のふもとの鉱山の町ポトシは、一気にふくれあがった。富を求めてスペイン人が押し寄せ、彼らに仕える先住民が周りの村々から集められた。17世紀の初めには人口が十数万に達し、当時のアメリカ大陸で最大級の町、ヨーロッパの大都市にも並ぶ規模になったとされる。空気の薄い高原の、作物も育たない土地に、教会と劇場と賭博場が建ち並んだ。

初めは、先住民の伝統の方法で銀を取り出していた。山の斜面に土の炉を並べ、吹きつける風で火力を上げて、豊かな鉱石を溶かす。だが掘りやすい上質の鉱石は20年ほどで尽き、産出は落ち込んだ。それを立て直したのが、1569年に着任した副王トレドだった。
トレドは二つのことを行った。一つは、水銀を使う精錬法の導入だった。粉にした鉱石を水銀と混ぜると、銀が水銀に溶け込んで合金になる。それを熱して水銀を飛ばせば、銀が残る。質の悪い鉱石からも銀が取れるようになった。必要な水銀は、同じペルーのワンカベリカの水銀鉱山から運ばれた。

もう一つが、労働の動員だった。インカ帝国には、民が交代で国のために働くミタという仕組みがあった。トレドはこれを作り変え、アンデスの広い地域の村々に、成人男性のおよそ7人に1人を、交代でポトシへ送るよう義務づけた。毎年1万人を超える男たちが、家族を連れて何百kmも歩いて山へ来た。賃金は払われたが、暮らしていけない額だった。
坑内は過酷だった。男たちは獣脂のろうそくの明かりをたよりに、細く深い坑道へ降り、重い鉱石の袋を背負って、革紐の梯子を何百メートルも登った。落盤があり、転落があった。冷たい坑内と吹きさらしの地上を行き来するうちに、肺を病んだ。精錬の作業では水銀の蒸気を吸い込み、水銀鉱山のワンカベリカでは、さらに多くの人が中毒で死んだ。ミタを逃れるために村を捨てる者が相次ぎ、アンデスの村々は人を失っていった。のちにはアフリカから連れてこられた奴隷も、主に造幣所などで働かされた。

数百年で死んだ人の数は分からない。800万人という数がよく引かれるが、これは根拠に乏しく、研究者の多くは受け入れていない。それでも、ポトシの富が、膨大な数の人の命と健康を代償にしていたことは確かだ。
銀は、町の造幣所で銀貨になった。8レアル銀貨、のちに「スペイン・ドル」と呼ばれる大きな銀貨は、世界で最も信用される通貨になり、アメリカ合衆国のドルの手本にもなった。銀は荷車と船でパナマを経てスペインへ運ばれ、スペイン王の財政を支えた。フェリペ2世の戦争、アルマダの海戦(アルマダの海戦)に送った艦隊も、アメリカの銀なしには成り立たなかった。だが王は銀が届く前から借金を重ね、何度も支払いを止めている。大量の銀はスペインを素通りし、ヨーロッパ中に流れて、物価を長く押し上げた。

銀の行き着く先は、中国だった。明は16世紀、さまざまな税と労役を銀でまとめて納めさせる仕組みに変えていった(一条鞭法)。中国では銀の値打ちが高く、ヨーロッパの商人は銀を持って行けば絹や陶磁器、茶を有利に買えた。銀はインド洋を回って中国へ流れ込み、さらに1571年、スペインがフィリピンのマニラに拠点を築くと、メキシコのアカプルコからマニラへ、太平洋を渡って直接運ばれるようになる(マニラ・ガレオン貿易)。同じころ、日本の石見銀山の銀も、中国へ流れ込んでいた。
南米で掘られた銀が、大西洋を越えてヨーロッパを通り、あるいは太平洋を越えて、中国に落ち着く。銀を通じて、地球を一周するお金と物の流れが、ここで初めてできた。1571年を、世界規模の交易が始まった年と呼ぶ歴史家もいる。

ポトシの繁栄は17世紀の半ばから陰り、鉱石の質が落ちるにつれて町は縮んだ。それでも山の採掘は止まらず、いまも小規模な鉱夫たちが、何百年も掘られて穴だらけになった山に入っている。山そのものが崩れる危険が指摘されている。『ドン・キホーテ』にも出てくる「ポトシほどの値打ちがある」という言い回しは、スペイン語でいまも莫大な富を意味する。