ロバート・ピール
概要
ランカシャーの綿工場主の子。内相として1829年にロンドンに警察を作った。警官は「ボビー」「ピーラー」。カトリック解放。保守党を作り直した(タムワース宣言)。首相として所得税、鉄道法、工場法、穀物法の廃止。党を割って辞めた。1850年、落馬して死んだ。「ピール派」がグラッドストンを連れて自由党に行った。
関わったできごと(1)
穀物法の廃止AD1846年6月25日 · 党を割った本文
ロバート・ピールは、1788年2月5日、イングランド北西部ランカシャーのベリーで生まれた。祖父は綿布の捺染で財をなし、父は大きな綿工場の主で、準男爵に叙され、下院議員も務めた。父は長男を政治家にすると決め、小さな頃から演説を暗唱させたという。名門のハロー校では詩人バイロンと同学年で、オックスフォード大学では古典と数学の両方で最優等をとった最初の学生になった。1809年、21歳で下院に入った。選挙区は父が手配したアイルランドの小さな選挙区だった。

1812年からの6年間、アイルランド担当相として統治にあたった。プロテスタントの立場からカトリックの権利拡大に反対し、「オレンジ・ピール」と呼ばれた。カトリック解放運動の指導者ダニエル・オコンネルとは、決闘の段取りまで進んだことがある。この時期に、アイルランドで治安を守る専門の警察隊を作った。
1822年に内相になると、刑法の改革に取りかかり、死刑となる罪の数を大きく減らした。そして1829年、首都警察法を通して、ロンドンに近代的な警察を作った。兵士と区別するために紺の燕尾服と高い帽子を制服とし、武器は警棒だけとした。市民は警官を、ピールの名をとって「ピーラー」「ボビー」と呼んだ。警察は市民の同意によって成り立つという「ピールの原則」がよく引かれるが、この形にまとめたのは20世紀の著述家とされ、ピール自身の言葉ではない。

同じ1829年、ピールは自分が長年反対してきたカトリック解放を、首相ウェリントンとともに通した。オコンネルが選挙に勝ち、拒めばアイルランドで内乱が起きると判断したからだ。信念を曲げたとして支持者に責められ、母校オックスフォード大学の議席を失った。
1832年の選挙法改正でトーリー党は大敗した。1834年、ピールは選挙区の有権者に宛てたタムワース宣言で、改正をもう覆さないこと、慎重な改革は進めることを約束した。古い特権を守るだけの党を、変化を受け入れて管理する党へ作り変えようとしたもので、ここから保守党の名が定着していく。同じ年に短い間首相を務め、1841年の選挙で勝って本格的な政権を作った。

1841年から46年の政権は、19世紀イギリスでも指折りの仕事をした。1842年、平時としては初めて所得税を復活させ、その代わりに多くの品目の関税を下げた。1844年の銀行条例は、紙幣の発行をイングランド銀行の設立に集めていく道を開いた。同じ年の工場法で女性と子どもの労働時間を制限し、鉄道法で安い運賃の列車を各社に義務づけた。1843年には、秘書のエドワード・ドラモンドがピールと間違えられて撃たれ、死んだ。犯人マクノートンは精神障害を理由に無罪となり、この裁判から生まれた基準は、いまも英米の刑法で責任能力の判断に使われている。
1845年、アイルランドでジャガイモの病気が広がり、大飢饉が始まった(アイルランドのジャガイモ飢饉)。ピールはアメリカからトウモロコシをひそかに買い付けて配らせ、外国の穀物に高い関税をかけていた穀物法の廃止に踏み切った(穀物法の廃止)。地主を支持基盤とする保守党の多くは反対し、ディズレーリは党を裏切ったと激しく攻撃した。1846年6月、廃止は野党の賛成で成ったが、同じ夜にアイルランド治安法案で敗れ、ピールは辞任した。辞任の演説で、彼は額に汗してパンを得る人々の家で、好意とともに名を思い出されたいと述べた。
保守党は割れた。ピールに従った議員たちはピール派と呼ばれ、のちに自由党の結成に加わった。その中から首相グラッドストンが出ている。
1850年6月29日、ロンドンのコンスティテューション・ヒルで馬から落ち、馬が彼の上に倒れた。3日後の7月2日に死んだ。62歳だった。貴族の位を生涯断り、国葬も家族が辞退した。死後、各地の労働者が小銭を出し合い、彼の像が建てられた。穀物の値を下げた首相への、手紙や募金の形の感謝だった。