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Person / 人

ロバート・ピール

Robert Peel
AD1788年2月5日 – AD1850年7月2日(享年62)
イギリス重要度 4

概要

ランカシャーの綿工場主の子。内相として1829年にロンドンに警察を作った。警官は「ボビー」「ピーラー」。カトリック解放。保守党を作り直した(タムワース宣言)。首相として所得税、鉄道法、工場法、穀物法の廃止。党を割って辞めた。1850年、落馬して死んだ。「ピール派」がグラッドストンを連れて自由党に行った。

関わったできごと(1)

穀物法の廃止AD1846年6月25日 · 党を割った

本文

1788年、ランカシャーのベリー。祖父が綿の捺染で財を成し、父は工場主で準男爵で議員。「首相にする」と父が育てた。ハロー(バイロンと同級)、オックスフォード(古典と数学で首席の二冠、最初)。1809年、21歳で議員(父が買ったアイルランドの選挙区)。

1812〜18年、アイルランド担当官。「オレンジ・ピール」(プロテスタントの側)。オコンネルと決闘しかけた。1822〜27年、1828〜30年、内相。刑法の改革(死刑になる罪を100以上減らした)。1829年、首都警察法。ロンドンに、青い制服、警棒だけ、軍でない警察。「ピーラー」「ボビー」(ロバート)。「警察は市民であり、市民は警察である」。1829年、カトリック解放(自分が反対していたのを、オコンネルの当選で内乱を恐れて、通した。オックスフォードの選挙区を失った)。

1834年、タムワース宣言。「改革を認めるが、革命は認めない」。トーリー党を保守党に作り直した。1834〜35年、首相(短命)。1841〜46年、首相。所得税の復活(1842年、平時に初めて)。関税を1200品目で下げた。銀行条例(1844年、イングランド銀行の発券の独占)。鉄道法。工場法(1844年)。鉱山法(1842年、女性と10歳未満の子供の坑内労働の禁止)。1843年、秘書ドラモンドがピールと間違えられて撃たれて死んだ(マクノートン。精神障害による無罪の判例)。

1845年、アイルランドの飢饉。インドのトウモロコシを密かに買って配った(「ピールの硫黄」と嫌われた)。穀物法の廃止。1846年6月29日、辞任。「私は、パンを額に汗して食べる人々の記憶の中に、名を残したい」。

ピール派。グラッドストン、アバディーン、ハーバート、カーディウェル。保守党と自由党の間で、1859年、自由党に。

1850年6月29日、コンスティテューション・ヒルで落馬した。馬が彼の上に倒れた。7月2日、死んだ。62歳。国葬を遺言で断った。労働者が募金して像を建てた。