交子(世界最初の紙幣)
概要
四川は銅が不足して鉄銭を使っていた。絹1匹を買うのに鉄銭130斤(約80キロ)。商人が預り証を発行して、それが手形として流通した。1023年、宋の政府が「益州交子務」を置いて、国家の発行に切り替えた。3年ごとに刷り直し、準備金を持つ。世界で最初の政府発行の紙幣。南宋の会子、金の交鈔、元の宝鈔へ。マルコ・ポーロが驚いて書いた。過剰発行によるインフレも、ここから始まった。
場所
30.57°N 104.07°E · 中国・四川省
本文
960年に宋が建国されると(宋の成立)、中国の経済は大きく伸びた。農業の生産が上がり、都市が育ち、商業が盛んになって、銅銭の需要は爆発的に増えた。宋は歴代の王朝の中でも飛び抜けて多くの銅銭を鋳造したが、それでも足りなかった。とりわけ事情が厳しかったのが、西南の四川(当時は益州と呼ばれた)である。四川は山に囲まれた豊かな盆地だが、銅がほとんど採れない。宋は四川を、価値の低い鉄銭を使う地域とし、銅銭が外へ流れ出るのを防いだ。
鉄銭は重かった。宋の初めの記録には、絹1匹を買うのに鉄銭2万枚、重さにして130斤(80キロ前後)が要ったという話が残っている。少し大きな取引をするには、荷車と人手が必要だった。成都は絹織物や茶の取引で賑わう大きな商業都市だったから、この不便は深刻だった。

10世紀の終わりごろ、成都の商人たちが一つの工夫を始めた。客から鉄銭を預かり、その額を書いた紙の預り証を渡す。証書を持ってくれば、いつでも鉄銭に換えて返す。手数料として、引き出しのときに額の3%ほどを取った。やがて人々は、わざわざ鉄銭に換えずに、証書そのものを取引の支払いに使うようになった。この証書が「交子」である。
11世紀の初め、地方官の張詠が四川を治めていた頃、交子の発行は成都の富裕な商家16軒の組合に任された。紙の質と模様をそろえ、印を押し、店ごとの秘密の印を加えて、偽造を防いだ。ところが、発行した商家の中には、預かった鉄銭を勝手に使い込み、交子を多く出しすぎて、引き換えられなくなる者が出た。交子を持つ人々が店に押しかけ、訴えが相次いだ。民間の手形は、信用が崩れればただの紙になる。

1023年、宋の朝廷は民間による交子の発行を禁じ、成都に「益州交子務」という役所を置いて、政府自ら交子を出すことにした。翌1024年、最初の官製の交子が発行された。政府が発行し、政府が価値を保証する紙の通貨。世界で最初の政府発行の紙幣とされるのはこれである。唐の時代にも「飛銭」と呼ばれる送金のための手形があったが、それは遠くへ金を送る仕組みで、通貨として流通したわけではなかった。
官製の交子には、きちんとした仕組みがあった。発行は期間を区切って行い、3年目に入ると(実質は2年あまりで)期限が来て、新しい交子と引き換える。古い交子は回収して焼いた。この一期を「界」と呼ぶ。一界の発行額の上限は125万6340貫と決められ、引き換えのための準備として鉄銭36万貫を用意した。発行額のおよそ3割にあたる。この割合は、のちの時代の中央銀行が考える準備の考え方にも通じるものとして、しばしば注目される。
仕組みは、長くは守られなかった。11世紀の後半、宋は北の遼、西北の西夏との対立で巨額の軍事費を抱えるようになった。王安石の新法の時代を経て、政府は交子を西北の辺境の軍費の支払いにも回すようになり、界をまたいで古い交子を回収しないまま新しい交子を重ねて出した。価値は下がり、1105年には名を「銭引」と改めて出し直したが、信用は戻らなかった。
紙幣の仕組みそのものは、その後の中国の王朝に受け継がれた。南宋は1160年から都の臨安で「会子」を出し、銅銭と並ぶ通貨とした。北の金も「交鈔」を出した。そしてフビライ・ハンの元は、1260年に「中統元宝交鈔」、1287年に「至元宝鈔」を発行し、紙幣を帝国の通貨の中心に据えた。時期によっては金や銀、銅銭での取引を禁じ、紙幣だけを使わせた。紙幣を主な通貨とする体制が、これほどの規模で運用されたのは初めてのことだった。
ヴェネツィアから来たマルコ・ポーロは、これに目を見張った。彼の旅行記によれば、大ハーンは桑の木の皮の内側から紙を作らせ、そこに役人たちが名を書き、印を押す。この紙は帝国のどこでも金や銀と同じように通用し、受け取りを拒む者は死罪になる。そうして大ハーンは世界中の財宝を手に入れることができる、と彼は書いた。紙が金の代わりになるという話は、当時のヨーロッパの読者には、旅行記の中のほら話の一つのように聞こえたという。
紙幣の歴史は、同時にインフレの歴史の始まりでもあった。刷れば金になる紙は、財政に困った政府にとって抗いがたい誘惑だった。南宋の会子は、モンゴルとの戦争の費用をまかなうために大量に刷られ、13世紀の後半には価値が大きく下がった。元の宝鈔も、14世紀に入ると、宮廷の浪費や軍費、黄河の治水工事の費用のために乱発され、価値を失った。紙幣への信頼が崩れ、物価が上がり、民衆の暮らしが追い詰められたことは、元の末期の反乱と滅亡の背景の一つに数えられる。元を倒した明の朱元璋(洪武帝)も、1375年に「大明宝鈔」を発行したが、引き換えの準備を持たないまま出し続けたため、価値は100年ほどでほとんど消えた。
明の後半から清にかけて、中国の経済は、日本や新大陸から流れ込んだ銀を軸に動くようになった。税も銀で納めるようになった(一条鞭法)。政府の発行する紙幣が中国で再び本格的に使われるのは、20世紀になってからである。
ヨーロッパで最初の銀行券は、1661年にスウェーデンのストックホルム銀行が発行したものとされる。官製の交子から637年後のことである。それから30年あまりでイングランド銀行の設立が生まれ、18世紀の初めにはフランスでジョン・ローの紙幣が大混乱を起こした。四川の商人が重い鉄銭に困って始めた紙切れは、信用とは何か、通貨の価値は何が支えるのかという、いまも続く問いの始まりだった。