ハルシュタットの鉄と塩
概要
アルプスの岩塩坑と鉄で栄えた。ここから広がった文化がのちにケルトと呼ばれる人びとのもとになる。坑内の塩が革の靴も道具もそのまま保存していた。
場所
47.56°N 13.65°E · オーストリア
本文
オーストリアのザルツカンマーグートに、湖と急な山にはさまれた小さな町ハルシュタットがある。その上の谷の山腹には、何千年も前から人が掘り進めてきた岩塩の坑道がある。冷蔵の手段が無い時代、塩は肉や魚を保存し、家畜に与え、皮をなめすのに欠かせなかった。海から遠いヨーロッパの内陸では、岩塩の山は金の鉱山に劣らない富の源だった。
採掘は青銅器時代にさかのぼる。坑道の中から見つかった木の階段は、年輪の分析で紀元前14世紀なかばに作られたことが分かっている。坑夫たちは青銅のつるはしで岩塩を砕き、革の背負い袋に入れて運び上げた。明かりには松明を使い、その燃えさしが坑道の床に厚く積もっている。

この遺跡が特別なのは、残っているものの種類である。坑道の中は塩に満ちて乾いているため、ふつうは土の中で腐ってしまう物がそのまま残る。木の柄のついた道具、革の帽子や靴、毛織物の切れ端、背負い袋、そして坑夫が残した排泄物まで出てくる。排泄物を調べた近年の研究では、豆や大麦の粥を食べていたこと、青かびのチーズやビールに使う微生物も見つかったと報告されている。先史時代の働く人々の暮らしが、ここまで具体的に分かる場所は世界でも多くない。18世紀には、塩に包まれて腐らずに残った古い坑夫の遺体が見つかったという記録もあるが、当時は再び葬られてしまった。
1846年、塩坑の管理人だったヨハン・ゲオルク・ラムザウアーが、坑道の近くで古い墓地を掘り始めた。十数年のあいだに約1000基の墓を調べ、出土品を絵と記録に残している。墓には青銅や鉄の剣、短剣、装身具、青銅の器が納められていた。中には、遠く地中海の産と見られるガラスや象牙もあった。この墓地の豊かさから、遺跡の名が中央ヨーロッパの初期鉄器時代の文化全体を指す名前になった。

ハルシュタット文化と呼ばれるのは、おおよそ紀元前1200年から紀元前450年ごろまでである。前半は青銅器時代の終わりにあたり、紀元前800年ごろから鉄が広まった(鉄が広まる)。鉄は青銅と違って材料の鉱石が各地で手に入るため、道具や武器が広く行き渡り、社会の形を変えていった。
この文化圏は、東はハンガリーやスロベニアから、西はフランス東部まで広がっていた。紀元前6世紀には、その西の地域に有力者の墓と、丘の上を壁で囲った拠点が現れる。ドイツ南西部のホーホドルフで見つかった首長の墓には、金で飾られた靴や青銅の寝椅子、四輪の車が納められていた。フランス東部のヴィクスの女性の墓からは、ギリシア製の青銅の大きな酒器が出た。高さが1.6メートルを超え、ギリシア世界でも最大級の品である。

こうした品々は、地中海との交易を物語っている。紀元前600年ごろ、ギリシア人が南フランスの海岸にマッサリア(今のマルセイユ)を開くと、ワインや酒器がローヌ川をさかのぼって内陸へ運ばれた。アルプスの南ではエトルリアの都市国家が栄え、その品もアルプスを越えて北へ入った。北からは塩や毛皮、金属、そして人が送り出されたと考えられている。
紀元前5世紀になると、有力者の拠点はいっせいに衰え、文化の中心はさらに北と西へ移っていく。これに続く時代の文化を、スイスの遺跡の名をとってラ・テーヌ文化と呼ぶ。ラ・テーヌの人々は曲線を多用する独特の装飾を生み、やがてイタリアへ攻め込み(ケルト人のローマ略奪)、ギリシア人やローマ人からケルト人、ガリア人と呼ばれることになる。

そのため、ハルシュタット文化をケルトの源とする説明が広く行われてきた。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、紀元前5世紀にケルト人がドナウ川の源流のあたりに住んでいると書いており、この見方を支える。ただし、物の文化の広がりと、言葉や民族の広がりが一致するとは限らない。ケルト語がどこで生まれ、どう広まったかについては、大西洋岸から広がったとする説もあり、研究者の意見は分かれている。
ハルシュタットの塩坑では今も採掘が続き、世界で最も古い現役の塩坑の一つとされる。1997年には周辺の景観とともに世界遺産に登録された。坑道の奥では、考古学者が今も先史時代の作業場を掘り進めている。