できごと

ナーディル・シャーのデリー略奪

Nader Shah's sack of Delhi
AD1739年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1739年の版図を描いています(30勢力)。

概要

孔雀の玉座とコ・イ・ヌールを持ち去った。ムガルは形だけの帝国になり、地方の勢力が実権を握る。

場所

デリー
28.61°N 77.21°E · インド

本文

18世紀の初め、イランを200年あまり治めたサファヴィー朝が崩れた。1722年、東から攻め込んだアフガン人に都イスファハーンを落とされ、国は割れた。北からはロシアが、西からはオスマン帝国が領土をかじり取った(サファヴィー朝のイスファハーン)。この混乱の中から現れたのが、トルコ系の遊牧部族アフシャールの出身の軍人ナーディルだった。

ナーディルは、はじめはサファヴィーの王子に仕える将軍として戦った。アフガン人を追い出し、オスマン帝国から西の領土を取り戻し、ロシアにも占領地を返させた。勝ち続けるうちに実権は彼の手に移り、1736年、自ら王位に就いてナーディル・シャーと名乗った。そして東へ向かう。1738年にアフガン人の拠点カンダハールを落とし、さらにカーブルを越えて、インドへ通じる峠を下りた。

ナーディル・シャーの肖像(1740年頃)
ナーディル・シャーの肖像(1740年頃)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

インドを治めていたのはムガル帝国である(ムガル帝国の成立)。だが、30年あまり前にアウラングゼーブが死んでから、帝国は弱っていた。皇帝は短い間に何人も入れ替わり、デカンでは独立に近い太守が育ち、マラーターが各地で力を伸ばしていた。皇帝ムハンマド・シャーは享楽を好み、政治は廷臣の派閥争いに任されていた。北西の国境の守りもゆるみ、ナーディルの接近への対応は遅れた。

1739年2月、デリーの北およそ120キロのカルナールで両軍がぶつかった。ムガル側は数の上では大きかったが、指揮はまとまらず、重い象の部隊は機動力のあるナーディルの騎兵と銃兵に翻弄された。戦いはわずか数時間で決したとされる。皇帝は降り、ナーディルはその皇帝を伴ってデリーに入った。

ナーディル・シャー
ナーディル・シャーWikimedia Commons Bahram. Original uploader was Евгений Ардаев at ru.wikipedia · Public domain

デリーでナーディルは、当初は略奪を禁じていた。ところが、ナーディルが殺されたという噂が市中に流れ、市民がペルシア兵を襲って数百人を殺した。翌朝、ナーディルは報復を命じた。兵は市の中心部に入り、男も女も子どもも殺した。殺されたのは2万から3万人とする推定が多いが、記録によって数字の幅は大きい。殺戮は半日ほどで止んだ。重臣のニザームル・ムルクらがとりなしたためと伝えられる。

続いて取り立てが始まった。皇帝の宝物庫、貴族の邸宅、商人の蔵から、金銀と宝石が根こそぎ集められた。シャー・ジャハーンが作らせた孔雀の玉座、のちにコ・イ・ヌールと呼ばれる大ダイヤモンド、ダリヤーイェ・ヌールと呼ばれるダイヤモンドもその中にあった。コ・イ・ヌール(光の山)という名は、ナーディルがこの石を見て叫んだ言葉だとする話があるが、確かな根拠は無い。財宝は象と駱駝の長い列で運び出され、その額があまりに大きかったため、ナーディルはイラン国内で三年間の税を免除したと伝えられる。

ヨナス・ハンウェイによるナーディル・シャーのポートレート
ヨナス・ハンウェイによるナーディル・シャーのポートレートWikimedia Commons Jonas Hanway: Zuverläßige Geschichte der Englischen Handlung durch Rußland, über die Caspische See, nach Persien, der Ta · Public domain

ナーディルはデリーにとどまらなかった。ムハンマド・シャーを帝位に戻し、インダス川より西の領土を割譲させて、5月には帰路についた。インドを支配するためではなく、取るためだけに来た遠征だった。

ムガル皇帝は位にとどまった。だが、帝国が形だけのものになったことを、この事件は誰の目にも明らかにした。都を守れず、宝物を奪われた皇帝に、地方を従わせる力は無い。ハイデラバードのニザーム、ベンガルやアワドの太守は事実上の独立君主になり、マラーターは北インドへ進出していく。

ナーディル自身は、晩年に猜疑心が強まって苛烈な支配を重ね、1747年に自分の陣営で暗殺された。その死後、配下だったアフガン人の将アフマド・シャーがアフガニスタンに独立の王国を作り、何度もインドへ攻め込んだ。1761年にはマラーターと戦うことになる(第三次パーニーパットの戦い)。孔雀の玉座はナーディルの死後の混乱で失われ、行方が分からない。コ・イ・ヌールはアフガンの王からシク王国の手を経て、1849年にイギリスに渡り、今はイギリス王室の宝物になっている。インドやパキスタンなどは返還を求めている。

第三次パーニーパットの戦いに関わる図版:The Third battle of Panipat 13 January 1761
第三次パーニーパットの戦いWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

ムガルの権威が崩れ、地方の勢力が争い合うインドに、海から来たイギリス東インド会社が入り込んでいく。18年後のプラッシーの戦いは、その始まりになった。

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