エルミナ城の建設
概要
ポルトガルがギニアの黄金海岸に石を運んで城を建てた。サハラ以南で最初のヨーロッパの建物。金と、それから奴隷。1637年にオランダが取り、1872年にイギリスに売った。「帰らずの門」。いまはガーナの世界遺産で、アメリカから子孫が来る。
場所
5.08°N -1.35°E · ガーナ
本文
15世紀のポルトガルは、エンリケ航海王子の後押しのもとで、アフリカの西岸を少しずつ南へたどっていた。目当ての一つは金だった。西アフリカの金は、それまでサハラ砂漠を越える隊商の道で北アフリカへ運ばれていた(ガーナ王国の金と塩の交易)。海から直接その産地に近づければ、イスラーム教徒の商人を通さずに金を手に入れられる。
1471年、ポルトガルの船は、いまのガーナの海岸に着いた。内陸のアカン人の地域で採れる金が、この海岸で取引されていることを知り、ポルトガル人はこの地を「ミナ(鉱山)」と呼んだ。後にヨーロッパ人がこの一帯を「黄金海岸」と呼ぶようになるのは、ここから来ている。ほかのヨーロッパの国の船も金を求めてやって来るようになり、ポルトガルは独占を守るための拠点を必要とした。

1481年に即位した国王ジョアン2世は、すぐに城の建設を命じた。ディオゴ・デ・アザンブジャが率いる約600人の一行は、あらかじめ切り出して番号をふった石材や瓦、木材を船に積んで出発し、1482年1月に現地に着いた。土地の首長はカラマンサと記録されている。ポルトガル側の記録によれば、首長は初め、石の建物を建てることを渋ったが、交渉の末に建設が認められた。城は数週間で形になり、「サン・ジョルジェ・ダ・ミナ(鉱山の聖ゲオルギウス)」と名づけられた。サハラより南のアフリカで、ヨーロッパ人が建てた最初の恒久的な建物とされる。のちのコロンブスも若いころにこの地を訪れたと自ら書き残している。
城を通じて、ポルトガルは多くの金を本国に送った。その金はポルトガルの王室を潤し、さらに南への航海を支える資金にもなった(バルトロメウ・ディアスの喜望峰到達は1488年である)。初めのうち、ポルトガル人はベニン湾などから奴隷を買い入れ、それを金と引き換えにアカン人の商人に売っていた。内陸の金の採掘や運搬に人手が要ったためである。奴隷は、最初は城から内陸へ向かって売られていた。
流れが逆になるのは16世紀以降である。アメリカ大陸の植民地で砂糖のプランテーションが広がると、大西洋を越えて人を運ぶ取引が大きくなっていった(大西洋奴隷貿易)。1637年、オランダの西インド会社がエルミナを攻め落とし、1642年までにポルトガルの拠点をこの海岸から一掃した。オランダの時代、城は金の取引と並んで、奴隷を集め、船に積み出す拠点としての役割を強めていく。城の地下には男女別の牢があり、人々は船が来るまで暗く狭い部屋に押し込められた。最後に通って船に乗せられた出口は、のちに「帰らずの門」と呼ばれるようになった。

この海岸には、ほかにもイギリス、デンマーク、スウェーデンなどが砦を築き、数十の城や砦が並んだ。近くのケープ・コースト城はイギリスの拠点だった。19世紀に入ってイギリスが奴隷貿易を禁じると(イギリスの奴隷制廃止法)、城の役割は変わり、1872年、オランダは黄金海岸の拠点をすべてイギリスに譲った。イギリスはこの地を植民地とし、エルミナ城は警察の訓練所や学校などに使われた。
1957年、黄金海岸はガーナとして独立した(ガーナの独立)。1979年、エルミナ城はケープ・コースト城などとともに「ガーナのヴォルタ、アクラ、中部州、西部州の城塞群」として世界遺産に登録された。いま城は博物館になり、見学者は地下の牢や「帰らずの門」を案内される。

20世紀の終わりごろから、アメリカ大陸に連れて行かれた人々の子孫が、祖先の出発した場所を訪ねてこの城に来るようになった。ガーナ政府は、最初の奴隷がアメリカのヴァージニアに着いたとされる1619年から400年にあたる2019年を「帰還の年」と名づけ、海外のアフリカ系の人々の来訪を呼びかけた。白く塗られた城は、いまも漁師町の浜に、海に向かって建っている。