スタンフォード・ラッフルズ
概要
ジャマイカ沖の船の上で生まれた。14歳で東インド会社の書記。ペナン、マレー語。1811年、ジャワの副総督(ナポレオン戦争でオランダ領を取った)。ボロブドゥールを「発見」した。『ジャワ誌』。1819年、シンガポール。動物学者で、ロンドン動物園を作った。奴隷貿易を禁じた。45歳で脳腫瘍。会社は彼の借金を遺族に請求した。ラッフルズ・ホテル、ラッフレシア。
関わったできごと(1)
ラッフルズのシンガポールAD1819年2月6日 · 建てた本文
トマス・スタンフォード・ラッフルズは、1781年7月6日、ジャマイカのポート・モラントの沖に停泊していた商船アン号の上で生まれた。父ベンジャミンはその船の船長だった。一家は裕福ではなく、ラッフルズは14歳で学校をやめ、ロンドンの東インド会社の本社で臨時の書記として働き始めた。昼は帳簿を写し、夜は独学で語学や博物学を学んだという。

1805年、ペナンの副書記に任じられ、東南アジアへ渡った。出発の直前に、10歳年上の未亡人オリヴィアと結婚している。ペナンへの航海のあいだにマレー語を学び、着いてからは現地の言葉と慣習に通じた役人として頭角を現した。マラッカに滞在したときには、イギリスがこの町を壊して捨てようとしていた方針に反対する意見書を書き、総督ミントー卿の目にとまった。
ナポレオン戦争のさなか、オランダはフランスの支配下にあり、オランダ領のジャワもフランスの側にあった。1811年、ミントー卿はジャワに遠征して島を取り、30歳のラッフルズを副総督に据えた。ラッフルズはオランダ時代の強制的な納入をやめ、村ごとに地代を政府へ納めさせる土地税の制度を入れようとし、奴隷の売買を禁じた。一方で、1812年には軍を送ってジョクジャカルタの王宮を攻め落とし、宝物や文書を持ち去っている。

ジャワでの彼は、学者でもあった。1814年、中部ジャワの密林に埋もれた大きな遺跡のうわさを聞き、技師コルネリウスに草木を払わせて調べさせた。これがボロブドゥールである(ボロブドゥールの造営)。地元の人々はその存在を知っており、「発見」という言い方には注意がいる。ラッフルズは調査の成果をまとめ、1817年に『ジャワ誌』2巻を出した。歴史・言語・動植物・農業を網羅した本で、長くヨーロッパ人のジャワ理解の土台になった。
同じ1814年、オリヴィアが病死した。1816年、ナポレオン戦争の終結にともないジャワはオランダに返されることになり、ラッフルズは統治の赤字と独断を責められて呼び戻された。ロンドンで『ジャワ誌』が評判を呼び、1817年にナイトに叙され、ソフィア・ハルと再婚した。

1818年、スマトラ西岸の小さな拠点ベンクーレンの副総督として東洋へ戻った。マラッカ海峡の交易をオランダに握られることを恐れた彼は、海峡の南の出口に新しい港を探した。1819年1月、ウィリアム・ファーカーとともにシンガポール島に上陸し、ジョホールの王族と交渉して商館を置く権利を得た(ラッフルズのシンガポール)。港は関税を取らない自由港とされ、商人が集まって人口は数年で1万を超えた。1822年に再び訪れたときは、民族ごとに住む区画を分け、道路の幅や家並みを定めた町の計画を作らせている。
晩年は不運が重なった。熱帯の病で、ソフィアとのあいだに生まれた子のうち4人が東洋で死んだ。1824年2月、帰国のために乗った船フェーム号が出港の夜に火事を起こして沈み、家族は助かったものの、集めた動植物の標本、原稿、地図をすべて失った。スマトラでは、植物学者ジョゼフ・アーノルドとともに直径1メートル近い花を記録しており、この花はのちにラフレシア・アーノルディと名付けられた。
帰国後のラッフルズは、ロンドンに動物学の協会を作ることに力を注いだ。1826年にロンドン動物学協会が生まれ、初代の会長になった。協会がリージェンツ・パークに開いた動物園は、彼の死後の1828年に公開されている(ロンドン動物園)。だが東インド会社は、ジャワとベンクーレンの統治の赤字などとして2万ポンドを超える額を彼に請求した。1826年7月5日、45歳の誕生日を翌日に控えて急死した。脳の病気(脳卒中や脳腫瘍とされる)だった。ヘンドンの教会の牧師は、一族が奴隷貿易で財をなした人で、奴隷制に反対したラッフルズを記念する碑を教会に置くことを拒んだといわれる。遺体の場所は長く分からず、1914年の教会の改修で見つかった。

シンガポールには、川岸に彼の像が立ち、ホテル・学校・広場に名が残る。1965年に独立したシンガポール(シンガポールの独立)は、植民地の象徴を壊さず、彼を「建国者」として扱ってきた。しかし2019年の上陸200年の記念行事では、それ以前からこの島にあった港町の歴史や、ファーカーら他の人々の働きも語られ、ラッフルズ一人を始まりとする見方は改められつつある。