ヴェネツィアのダルマティア遠征
概要
ドージェが艦隊を率いてアドリア海東岸の港を従えた。以後ドージェは「ダルマティア公」を名乗り、毎年海に指輪を投げる儀式が始まる。
場所
45.44°N 12.32°E · イタリア・ヴェネト州
本文
ヴェネツィアは、アドリア海の奥の潟(ラグーナ)に浮かぶ島々に、6世紀ごろから人々が逃れ住んで生まれた町だった。畑になる土地はほとんど無い。塩と魚を売り、船で物を運ぶことで生きていた。名目の上ではビザンツ帝国に属していたが、選ばれた元首ドージェのもとで、実際には自分たちで町を治めるようになっていた(ヴェネツィア共和国)。
ヴェネツィアの船が東の地中海へ出るには、アドリア海を南へ下らなければならない。その東岸、いまのクロアチアの海岸は、無数の島と入り江が入り組んだ、船を隠すにはうってつけの海だった。とりわけ南のネレトヴァ川の河口に住むスラヴ人は、海賊として名高く、通る船を襲い、ヴェネツィアに通行の貢ぎ物まで払わせていた。沿岸の古いローマ以来の町々は、ビザンツの領土とされていたが、皇帝は遠く、守ってはくれなかった。内陸からは、勢いを増したクロアチアの王が圧力をかけていた。

991年にドージェとなったピエトロ2世オルセオロは、ヴェネツィアの商売の道を広げることに力を注いだ人だった。ビザンツの皇帝バシレイオス2世から、ヴェネツィアの船が払う関税を軽くする特権を得て、神聖ローマ皇帝オットー3世とも良い関係を結んだ。彼はネレトヴァの海賊への貢ぎ物を打ち切った。
1000年の春、昇天祭の日に、オルセオロは自ら艦隊を率いて出港した。艦隊はイストリア半島の港に寄りながら、ダルマティアの海岸を南へ下った。
沿岸の町は、一つずつ艦隊を迎えた。ザダル、トロギル、スプリト。多くは戦わずに、ヴェネツィアのドージェに忠誠を誓い、その保護を受け入れた。トロギルでは、クロアチアの王族の若者を人質として預かり、のちにドージェの娘と結婚させている。抵抗したのは、海賊と結んでいた南の島々だった。コルチュラ島は降り、最後まで抵抗したラストヴォ島は攻め落とされた。ネレトヴァの人々も、ついに和を求めた。
この遠征の経過は、ドージェに仕えた助祭ヨハネスが、同じ時代に書いた年代記で詳しく伝えている。
帰国したオルセオロは、ヴェネツィア人のドージェであるとともに、ダルマティア人のドージェを名乗った。ビザンツの皇帝の名目上の主権を認めつつも、アドリア海の東岸を自分たちの守るべき海と主張したことになる。
毎年の昇天祭に、ドージェが船で潟の出口へ出て、海に祝福を与える儀式は、この遠征を記念して始まったとされる。のちにこれは、ドージェが海に金の指輪を投げ入れて、海と結婚する儀式になった。「海よ、われらは汝と結婚する。真の永遠の支配のしるしとして」と唱えたと伝えられる。指輪の儀式がいつから行われたのかははっきりせず、1177年に教皇がドージェに指輪を与えたのが始まりだとする伝説もある。豪華な御座船ブチントーロに乗ったドージェの行列は、ヴェネツィアの最大の祭りの一つになった。
アドリア海が、ヴェネツィアの湾になった。とはいえ、ダルマティアの支配は、その後も揺れ続けた。12世紀にはクロアチアと結んだハンガリーの王が沿岸の町々を求めて争い、ヴェネツィアはこの地域を取ったり失ったりした。1202年、第四回十字軍の十字軍は、ヴェネツィアへの船賃の代わりに、ハンガリー側についていたキリスト教徒の町ザダルを攻め落としている。その2年後、同じ十字軍はコンスタンティノープルを攻め落とし、ヴェネツィアはその分け前として東地中海の港と島々を手に入れた(第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪)。ヴェネツィアがダルマティアの大半を確実に手に入れるのは、1409年、ハンガリー王位を争った王からその権利を10万ドゥカートで買い取ったときだった。

ヴェネツィアの海の帝国は、このアドリア海の東岸を足がかりに、ギリシアの島々やクレタ、キプロスへと伸びていく。1797年、ナポレオンに降伏して共和国が終わると、海との結婚の儀式も途絶えた。いまは祭りとして再び行われ、毎年の昇天祭の頃に、市長が船の上から海に指輪を投げ入れている。