泉州の海上交易
概要
マルコ・ポーロが世界最大の港の一つと書いた町。ムスリムの商人が数万人住み、モスクとヒンドゥー寺院とマニ教の像が並んでいた。
場所
24.87°N 118.68°E · 中国・福建省
本文
福建の南の海岸、晋江の河口に近い泉州は、唐の時代から外国の船が来る港だった。宋と元の時代に最も栄え、海の交易では世界有数の港になる。外国の商人はこの町を「ザイトン」と呼んだ。町に植えられていた刺桐(しとう、デイゴの仲間)の木の名がなまったものとされる。
北宋の朝廷は1087年、ここに市舶司を置いた。外国船の入港を管理し、積荷に税をかけ、一部を国が買い上げる役所になる。北方を遼や金に押さえられた宋にとって、海の関税は重要な財源だった。1127年に宋が南へ移ると、都の臨安(杭州)に近い東南の港の重みはさらに増した。積み出されたのは絹、陶磁器、銅銭。運び込まれたのは香料、象牙、犀角、真珠、そして南海の胡椒になる。1974年に泉州湾の后渚港で掘り出された南宋末の船には、香木や胡椒が積まれたままだった。

住んでいたのは中国人だけではない。アラブとペルシアのムスリム商人が多く住み、数万人とも言われる。インドのタミル商人、ユダヤ人、アルメニア人の記録もある。町にはモスクが建ち、そのうち清浄寺はいまも石の門を残している。ヒンドゥーの寺院もあり、シヴァやヴィシュヌの神話を刻んだ石材が、のちに別の建物に転用されて見つかっている。郊外の華表山の草庵には、マニ教の教祖マニを「光の仏」として刻んだ元代の石像が残る(マニ教の成立)。中国のほかの土地で禁じられ消えていった信仰が、ここでは仏の姿を借りて生き延びていた。
外国人は商売をしただけではない。南宋の末、泉州の市舶司を長く握ったのは、アラブ系とされる商人の家の蒲寿庚だった。1276年、元の軍が迫ると、蒲寿庚は宋を見限って元に降った。町にいた宋の皇族を殺したとも伝えられる。港と船団を押さえた男の寝返りは、南宋の最後の抵抗を海の側から断つことになった。
元の時代、泉州はさらに大きくなった。フビライ・ハンの朝廷は海の交易を奨励し、ムスリム商人を財務や徴税に用いた。マルコ・ポーロは帰国の旅で1291年ごろこの港から船出したとされ、胡椒を積んだ船がアレクサンドリアへ一隻行くあいだに、ザイトンには百隻が入る、と書いた(『東方見聞録』)。数字に誇張はあるとしても、地中海の大港よりはるかに大きいという驚きは伝わる。1340年代に来たイブン・バットゥータも、世界で最も大きな港の一つで、大きなジャンク船が百隻ほど、小さな船は数えきれない、と記している。

港を支えたのは、インド洋と南シナ海を季節風でつなぐ航路だった(ダウ船とモンスーン)。冬の北東風で南へ下り、夏の南西風で戻ってくる。泉州はその東の端にあたり、ここからマラッカ海峡、インド南部、ペルシア湾、紅海へと商品が受け渡された。一隻の船が端から端まで行くのではなく、いくつもの港で荷と人が乗り継いでいく。
繁栄は元の末期に崩れた。1357年、泉州のペルシア系の軍人たちが反乱を起こし、10年にわたる争乱になった。亦思巴奚(イスパハン)の乱と呼ばれる。鎮圧の過程で外国人の共同体は攻撃され、多くが殺されたり逃げたりした。続いて明の成立と、明は民間の海外渡航を禁じる海禁を敷いた。交易は朝貢という国どうしの取引に限られ、市舶司の役割も縮んだ。15世紀には市舶司が福州へ移され、港には川の土砂もたまっていった。鄭和の南海遠征のような国家の大船団は出たが、泉州の商人の港としての時代は終わっていた。

いま、泉州の海外交通史博物館には、アラビア文字、パスパ文字、シリア文字、漢字の墓碑が並んでいる。異国で死んだ商人と、その家族の墓になる。2021年、宋と元の時代の港の遺跡群はユネスコの世界遺産に登録された。
『ヨーロッパ覇権以前』は、この港を13世紀の世界システムの東の端に置いた(物語「『ヨーロッパ覇権以前』で読む13世紀」)。西の端はシャンパーニュの大市になる。ヨーロッパの船が大洋に乗り出す200年前、海の道はすでに端から端までつながっていた。