ベルの電話
概要
ボストンの下宿の一室。聾者の教師だったアレクサンダー・グラハム・ベルが、隣の部屋の助手に言った。「ワトソンくん、来てくれ。用がある」。硫酸をこぼしたから、という話が伝わる。3日前に特許を取っていた。同じ日に、イライシャ・グレイが同じ原理の書類を出していた(数時間の差、と言われる)。1877年、ベル電話会社。1915年、ニューヨークとサンフランシスコ。
場所
42.36°N -71.06°E · アメリカ・マサチューセッツ州
関わった人(1)
アレクサンダー・グラハム・ベルAD1847年3月3日–AD1922年8月2日 · 言った本文
1840年代に実用化された電信(モールスの電信)は、30年ほどのあいだに大陸を覆い、海底ケーブルで大洋を越えた。ただし、1本の電線で一度に送れるのは1本の通信だけで、線を張る費用は莫大だった。1本の線で複数の電信を同時に送る「多重電信」を実現すれば、大きな利益になる。1870年代、何人もの発明家がその競争に加わっていた。音の高さの違う信号をいくつも重ねて送り、受け手の側で高さごとに聞き分ける「調和電信」は、その有力な方法の一つだった。のちに電話を発明するアレクサンダー・グラハム・ベルも、この研究から出発している。
ベルは1847年、スコットランドのエディンバラに生まれた。祖父も父も話し方の専門家で、父のアレクサンダー・メルヴィル・ベルは、唇や舌の位置を記号で表して発音を教える「視話法」を考案した。母は耳が不自由で、少年ベルは母の額に口を寄せて低い声で話しかけ、骨を伝わる振動で言葉を届けたという。一家はカナダへ移り、ベルは1871年からボストンで耳の聞こえない人々に話し方を教えた。やがてボストン大学で発声生理学の教授になる。教え子の一人に、5歳のとき猩紅熱で聴力を失ったメイベル・ハバードがいた。のちにベルの妻となる女性で、その父の弁護士ガーディナー・ハバードは、ベルの研究の資金を出し、特許の権利を握る後ろ盾になった。

ベルは電気の専門家ではなかったが、音と声の仕組みについては誰よりも詳しかった。1874年の夏、彼は医師から借りた人の耳の標本を使い、音に合わせて振動を記録する装置を作った。そして、薄い鼓膜が、空気の振動だけで重い耳の骨を動かしていることに強い印象を受けた。それなら、薄い膜の振動で電流の強さを声の波形どおりに変えることができれば、声そのものを電線で送れるのではないか。彼は、ボストンの機械工房で働いていた若い職人トマス・ワトソンを助手に雇い、実験を重ねた。
1876年2月14日、ベルの代理人がワシントンの特許局に出願書類を提出した。同じ日、シカゴの発明家イライシャ・グレイも、液体を使って声を電流に変える送話器のアイデアについて、特許の予告にあたる書類を提出していた。どちらが何時間早かったのか、ベルの側が特許局の審査官を通じてグレイの書類の内容を知ったのではないか、という疑いは、その後何十年も論争と訴訟の種になった。3月7日、ベルに特許第174465号が与えられた。題は「電信の改良」だった。

3日後の3月10日、ボストンのエクセター・プレイスの下宿で、ベルは新しい送話器を試していた。薄い膜に付けた針の先を、酸を混ぜた水に浸しておく。声で膜が震えると、針が液に沈む深さが変わり、電気の流れやすさが変わって、電流が声の形に揺れる。グレイの予告にあったのと同じ原理だった。隣の部屋で受話器を耳に当てていたワトソンに向かって、ベルは送話器に言った。ワトソン君、来てくれ、用がある。ワトソンは廊下を走ってきて、言葉がはっきり聞こえたと告げた。この日の実験ノートに、ベルはそう書き留めている。ベルがズボンに酸をこぼしたので助けを呼んだのだ、という有名な話は、半世紀後に出たワトソンの回想録に見えるもので、ノートには書かれていない。
電話は、まだ実験室の珍品だった。それを世に知らしめたのは、1876年6月にフィラデルフィアで開かれた独立100周年の万国博覧会である。審査のために訪れたブラジル皇帝ペドロ2世は、受話器を耳に当てて、驚いて「これは話す」と叫んだと伝えられる。イギリスの物理学者ウィリアム・トムソン(のちのケルヴィン卿)も、アメリカで見たもののうち最も驚くべきものだと称賛した。ベルは各地で公開実験を行い、遠く離れた町どうしで声を送ってみせた。

1877年7月、ベル電話会社が設立された。当時、電信を独占していたウェスタン・ユニオン社は、電話の特許を10万ドルで売るという申し出を断ったと伝えられる。電話をおもちゃとみなしたからだという。だが同社はすぐに考えを改め、グレイやトーマス・エジソンの発明を使って自前の電話事業を始めた。ベルの会社は特許侵害で訴え、1879年、ウェスタン・ユニオンは電話事業から手を引く和解に応じた。その後もベルの特許をめぐる訴訟は600件を超えたが、合衆国最高裁判所は1888年、ベルの特許の有効性を認めた。
電話の発明者が誰かという問いは、いまも単純ではない。ドイツの教師フィリップ・ライスは1861年に音を電気で送る装置を作り、「テレフォン」と名づけた。音楽の音程は伝えられたが、言葉ははっきり聞き取れなかった。ニューヨークに住んでいたイタリア移民のアントニオ・メウッチは、1850年代から声を電気で送る装置を研究し、1871年に特許の予告を出したが、貧しさから更新の手数料を払えなかった。2002年、アメリカ下院は、メウッチの業績を認める決議を採択した。グレイも、もう少し早く正式に出願していれば、電話の発明者として記憶されていたかもしれない。それでも、声を電流の連続的な変化として送るという原理を特許にまとめ、実用化への道を開いたのはベルだった。

電話は都市の生活を変えた。電話交換局ができ、交換手が手で線をつないだ(電話交換手)。商売の取引も、医者を呼ぶのも、警察や消防への通報も、声ひとつでできるようになった。1915年1月25日、ニューヨークとサンフランシスコを結ぶ大陸横断の電話線が開通したとき、ニューヨークのベルは、39年前と同じ言葉で、サンフランシスコのワトソンに、来てくれと呼びかけた。ワトソンは、行くには1週間かかります、と答えたという。
ベル自身は、電話の事業からは早く身を引き、聾教育や、光で声を送る装置、飛行機、水中翼船などの研究に打ち込んだ。1922年8月、彼はカナダの別荘で死んだ。葬儀の日、北アメリカの電話は、彼を悼んで1分間、すべて沈黙したと伝えられる。